242 魔素と精気
否、子供は宙に浮かばない。全身に橙色の光をまとったりしない。大きさも子供と呼ぶには小さくぬいぐるみのようだ。体と服は一体化しているのだろうか、ひらひらと裾だけが踊っている。
(クーもいっしょ?)
未知なる橙色のぬいぐるみは、驚いて声も出ないジルにふわりと近づき体を傾げた。一拍遅れて身を退いたジルの両手が地に触れる。
「しゃべった!!」
「なにが喋ったんだ?」
「そ、そこにいるぬいぐるみが」
(ムーノだよ。わすれちゃったの~?)
思わず叫んだジルに、何事かと怪訝そうなデリック。そんなことはお構いなしにのんびり話すぬいぐるみ。そこへクレイグの不機嫌な声が追加された。
「ねぇ、なんか地面に穴あいてるんだけど」
(ぼくも、まもってたんだ~)
ムーノと名乗った橙色のぬいぐるみはえっへんと胸を張った。ジルの視界は橙色に占有されており、クレイグの言った状況は確認できていない。ムーノはふわふわと宙に浮きながら、ずっと同じ格好でジルの前から動かない。動かないのだけれど、ちらりちらりと、目が合う。
――えっと、これは。
何かは分からないけれど、護っていたと言っていた。もしやムーノは、ジルに褒めてほしいのだろうか。姿を現したときから害意は感じず、今も攻撃してくる気配はない。恐る恐る橙色に光るぬいぐるみの頭に手を伸ばせば、えへへと嬉しそうに目を細めた。
――かわいい。
撫でられるのが気に入ったのか、ムーノは短い腕を伸ばしてジルの手に小さな両手を添えている。あまりにも気持ち良さそうにするものだから、止めどきが分からない。橙色の頭から手を離したら悲しむだろうか。
「そこに何かあるのか?」
「はい。橙色のぬい……もしかして、見えていないのですか?」
ここに浮いているのだとジルはムーノを両手で囲い、位置を示してみせた。その空間を凝視し、なにも見えないと呟きながらデリックが手を伸ばした瞬間。
「!」
(ヒトきら~い)
どこからか飛翔した礫がデリックの手を払いのけた。咄嗟に腕を引いた騎士に大事はないようだけれど、次なる攻撃を警戒して気配はぴりぴりしている。デリックの手から逃げたムーノはジルの背後に移動していた。
前方の視界がひらけたことで、森の様子が目に入った。先ほどクレイグの言っていた通り、地面には穴があいていた。その穴は坂道のような傾斜を描いており、茶色の高い壁に挟まれた路の先には白壁の。
「土の神殿がみえてる」
(早く行こ~)
ジルの背後から出てきたムーノに、ツンツンと髪を引っ張られた。風が吹いたわけでもないのに動いたジルの髪をみてデリックは、見えない何かが本当にいるのだと認めたようだ。クレイグは静観しているけれど、まだ森からは出られそうにないと判断したのか、不満そうに口を結んでいる。
「そいつ、魔物とは違うのか?」
「敵意は感じません、ね」
「オレ攻撃されたけど」
(ヒトは、つかまえようとするからきら~い)
「私も人だよ……?」
(ルゥはすき~。クーも、近くにいるの?)
「クーっていうのは?」
(クーはクーだよ。クーも、わすれちゃったの?)
橙色の光をまとったぬいぐるみは、悲しそうにジルを見上げてきた。忘れたのかと問われても、ジルの記憶にクーという名の人物はいない。しかし、近い名前は知っている。
――クーが、クノスのことなら。
ムーノは魔力で見分けているのだろう。欠損を再生できるジルの魔力は、ルゥに似ている。そこへクノスに魔力を分けてもらったため、きっと二つの存在を感知したのだ。
判断基準が魔力なら、自分はルゥではないと言ってもムーノは納得しないだろう。それに、最短距離でつながった土の神殿への路が閉ざされるのは避けたい。ゲームでは迷路のような地下洞窟を通っていたのだ。
――水晶がキラキラしてて綺麗ではあったけれど。
「ごめんなさい、まだ分からないことが多くて。ムーノは、ずっとここにいたの?」
(わるいヒトから、ルゥの精気をまもってたの~)
橙色のぬいぐるみは両手を腰にあて、再びえっへんと小さな体をそらしてみせた。なんとも愛らしい姿だけれど、ジルの意識は教会領で受けた魔力の講義へ飛んでいた。
精気とは、精霊が持つ力のことだ。
人間は今でこそ念じれば魔法が発動するけれど、昔から自由に使えたわけではなかった。女神ソルトゥリスが魔素を浄化する以前は、精霊の力を借りていたと講義では話していた。
人の瞳にまだ精霊が映っていた時代。魔法使いの祖とされる初代教皇は、魔物に対抗するため魔法陣を媒介に精霊を呼び出し、助けを乞うていたそうだ。魔法陣には精霊への祈祷文が綴られており、造詣が深い者でなければ正確に描けない。
魔素が浄化されてからは、魔法陣なしで魔法を使える者が現れはじめた。この現象も女神の加護によるものとされており、もともと秘術であった魔法陣は精霊の姿が消えたのも重なり、急速に廃れていった。現代で遺失魔法と呼ばれるそれは、教会施設の一部に残っているだけだ。
――人は捕まえようとするから嫌い。悪い人から精気を護っていた。
ムーノが発した言葉だ。これでは精霊に助力を求めたというよりも。
(はやくとりに行こう~)
ムーノは考え込んだジルの手をとり引っ張りはじめた。その力は思いのほか強く、ジルには抵抗する理由もない。
「このまま土の神殿へ行きましょう」
デリックとクレイグからすれば、見えない何かに攫われているように見えただろう。臨戦態勢をとっていた二人へジルは、大丈夫だと頷いてみせた。




