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傾界の聖女  作者: たま露
【水・土の領地 編】
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238 嫌いと嫌い

 見えない壁で隔たれたように、それ以上クレイグの顔は近づいてこない。だからジルは左右で色の異なる瞳を間近に見据え、言葉を続ける。


「私が姉のように振る舞うから、意地になっているだけではないのですか?」


 ゲームでの土の大神官はそうだった。故郷を見殺しにしたソルトゥリス教会。その組織に崇められるヒロインの存在が気に入らず、クレイグは横暴な態度をとっていた。ヒロインはそんなクレイグの痛みを大きな慈愛で包み、すべてを赦すのだ。


 しかし、目の前にいる土の大神官は自らの知識で魔物を退治したため、教会を恨んではいない。だから反発対象が教会から、ことある事に諫めていたジルに変わっただけなのだ。


 クレイグの欲しいという感情はきっと、征服と同意義だ。


「手に入れたら満足して、興味がなくなりますよ」

「なら試してみればいい」


 尖った声音で見えない壁が割れた。硬いチョコレートと昏い夕陽の瞳が落ちてくる。と同時にジルは顔を背けた。


「試さなくても、私は弟としか思えません」

「じゃあ家族になって、オレとずっと一緒にいて」


 顔を背けたことにより、露わになっていた耳朶を食まれた。無くしたイヤリングが戻ってきたような圧がかかり、熱が集まっていくのを感じる。一瞬強く噛まれたあと、唇が離れた。その隙を縫いジルは隠していたナイフを振り上げる。ぴたりとクレイグの首に刃を添えてみせた。


「どいてください。家族でこんなことはしません」


 整っていた口の端が左右非対称に吊り上がり、鼻で笑われた。肩が揺れた拍子に金色の髪が一筋ナイフに触れ、ジルの頬をすべり落ちていく。


「どうやって子供ができると思ってんの」

「姉弟ではしません!」


 鈍く光る刃を傾け語気を強める。寝床に押し倒した体勢のまま引かないクレイグを、ジルは睨みつけた。


「弟だと思ってるのはそっちだけ」

「さっきは家族でいいって」

「夫婦も家族でしょ」


 ――夫婦?


 不明瞭な姿を判別しようと、眉間に力が入った。


 ジルにとっては家族を表すのにもっとも縁遠い言葉だ。父はある日、母と姉弟を置いてどこかへ消えた。母は姉弟を置いて、父ではない誰かと会っていた。親という存在は認識しているけれど、夫婦というものをジルは知らない。


「ねぇ、大神官を斬りつけて無罪で済むと思ってる?」


 注意が逸れていた。クレイグにナイフを持つ手を掴まれている。それだけではない、首に触れないよう保っていた刃から、紅い液体が滲んでいた。なおも肌へ沈もうとするナイフを止めるため、ジルは掴まれた腕に力を籠める。


「ソルトゥリス教会に、告発するのですか」

「ジルはしない。ここにいるのはエディだから」


 弟を人質にとる、土の大神官はそう宣言したのだ。そこまでして、どうしてクレイグは自分に固執するのだろうか。過去を振り返っても答えはでない。


 ジルは張り合っていた腕から、力を抜いた。反発する力を失った刃はそのまま食い込み、ぽたりと赤い雫を垂らす。


「私とはケンカばかりだったじゃないですか。クレイグ大神官様は、そういうのが好きなんですか?」


 夢でのクレイグはオレ様気質で、自分が思うままに振舞っていた。これも未来を変えてきた影響なのだろうか。土の大神官は、叱られたい欲にでも目覚めてしまったのか。ジルの言葉に秀眉が寄った。


「そんな趣味ない。……子供扱いしてきた見習いは、色じゃなくてオレをみてた」

「やはり姉が欲しいだけでは」

「姉にキスしたいなんて思わない」


 言い終わるが早いかナイフごと手を寝床に抑えつけられ、視界の半分が金色に覆われた。喉にあたたかなものが這っている。先ほどクレイグの血が落ちたところだ。耳に感じたのと同じ痛みが刺さる。


 それをジルは無視した。掴まれていないほうの手をクレイグの背後に伸ばす。抱き締めるように首へと腕をまわし。


「証拠は無くなりました」


 自己回復をおこなった。耳と喉にあった小さな違和感はない。聖魔法の光に反応して顔を上げたクレイグの傷も、ジルの目論見通り癒えていた。斬りつけた証拠、首の痛みは消えたはずだ。消えたはずなのに、人形のように整った顔がぐしゃりと歪んだ。


「そんなに、オレが嫌いなんだ」

「嫌い……というわけでは、ありません」

「好きじゃないなら嫌われたほうがマシ」


 顰められていた顔の皮膚が、なめらかに伸ばされた。女神に愛された色をもつ美しい人形は、夕陽のような右目に熱を宿し、チョコレート色の左目を溶かしている。微笑みに象られた唇から、甘い音色が奏でられた。


「嫌って嫌って、頭のなか、殺したいほど嫌いなオレで一杯にして」


 風が吹き、金糸の前髪が棚引いた。ジルの手からナイフの感触が無くなっている。伸し掛かっていた重みも移動しており、ひらけた視界には大部屋の低い天井と。


「なーんか拗らせてませんか、女神先生」


 土の大神官を羽交い締めにしたデリックがいた。場違いなほどに軽い声と、ジルの詰めていた呼吸が重なった。

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