233 指示と祝い
気が付けば、一度も口を付けていない紅茶からは湯気が消えていた。それでも緊張で渇いていた喉にはおいしい潤いだ。ジルがカップを戻すのに合わせて、ナリトが背もたれから身を起こした。
「理由を尋ねても?」
「ナリト大神官様の手紙には、書かれていないのですか?」
「そうだね。私のほうは二点だけだ」
一、同送の手紙は開封せずジル・ハワード嬢へ、タルブデレク大公から手渡すこと。
一、ジル・ハワード嬢の判断を支持し、ナリト・シャハナとして最大限の支援をおこなうこと。
「本当に、それをリンデン様が?」
信じられなかった。ジル宛ての文面とは雰囲気がまったく異なる。昨年の大神官総会でルーファスは、ほかの大神官たちに振り回されていた。それがここまではっきりと、しかもタルブデレクの領主へ指示を出すとは。
「ルーファス大神官には少し借りがあるんだ」
瞬きを繰り返すジルの疑問に答えたナリトの笑みは、どこか作り物めいていた。借りというのが関係しているのだろうか。ナリトはそこで言葉を止めてしまった為、ジルは自分宛ての手紙に書かれていた内容を伝えた。
「ローナンシェ領行きの船を手配しよう。出発はいつにする?」
「何日かかりますか?」
「ここからローナンシェ領の港までは五日。土の神殿へとなると馬で二日から三日くらいかな」
つまり、往復するだけで約二週間。道中、魔物と交戦することも考慮すると。
「あの……ナリト大神官様のお誕生日は、来月の何日でしょうか?」
「九日だが」
「決めました。明日、出発します!」
水の大神官の誕生日はちょうど一ヶ月後だった。セレナと相談してなにか用意する時間を考えると、ローナンシェ領へ行くのは早いほうがいい。
「あ、ご準備があるので明日は難しいでしょうか」
即決したあとで、出港できない可能性に思い当たった。五日間も海上にいるのだから、水夫のほかに水や食料も集めなくてはいけないのだ。日程を訂正しようと考えたそのとき、やや骨ばった手にジルの手は掬いとられた。
「急いで出発するのは、私のため?」
「せっかくなので当日にお祝い、それと! 水の神殿へ行く前にってリンデン様の希望でもありますから!」
ジルが肯定した瞬間、青い眼差しが甘く蕩けた。この雰囲気はマズい。学習したジルはルーファスの手紙も引き合いに出し、誕生日祝いのためだけではないのだと主張してみせた。
「これから毎日が、私の誕生日にしようか」
「誕生日が、まいにち?」
「そうすれば君はずっと、私のもとに居てくれるだろう? 本当は土の神殿にだって行かせたくはないんだ」
ジルの頬に、ナリトの手が伸びてきた。包み込むように触れている手のひらはあたたかい。しかし向けられた想いに浸ってはいけない。ヴィリクルの時のように、無理やり引き留めるつもりなら、とジルが対抗手段を練ろうとしたとき、水底の瞳がふっと陰った。
「しかし、女神はジル嬢をご所望のようだ」
長い親指はジルの目元をひと撫でし、離れていった。ナリトから溢れていた甘やかな空気も、潮が引くように消えている。そこから二人の会話は事務的なものとなった。
「明日出港する便がある。乗船者の追加を通達しておこう」
「ありがとうございます」
水の神殿での儀式を控えた次代の聖女が、期間外の領地を訪ねるのは不自然だ。そこでセレナや護衛騎士、水の大神官はタルブデレク領にこのまま留まることにした。
ジルはソルトゥリス教会に呼び戻されたていで邸を発ち、道中の護衛としてデリックを帯同させた、というのを対外的な理由とした。
出港は明日の午後。必要な物は積み込んでおく。ローナンシェ領での移動手段も手配しておくので心配はいらない。強行軍は禁止、とナリトは念を押し。
「君の無事の帰還が、なによりも嬉しい祝いだ」
覚えておいて、と紡いだ薄い唇はジルの頭にやわらかな感触を落した。再び満ちはじめた甘い空気に気恥ずかしさはあっても、嫌悪感はない。しかしナリトから伝えられる想いに比例して、ジルの胸には後ろめたさが募っていく。想いには応えないのに、好意は利用している。
「必ず戻ってきて、ナリト大神官様のお祝いもいたします」
これは少しでも罪悪感を減らしたい、ジルの自己満足だ。水底の瞳には見透かされているのだろう。ナリトは楽しみにしていると微笑み、否定しなかった。
「扉の鍵を預けておくよ」
おもむろにソファから立ち上がった部屋の主は間仕切りの奥へと消え、すぐに戻ってきた。差し出された真鍮製の鍵には見覚えがあった。優美な流線を描いた持ち手は、これが宝飾品だと言われても信じてしまうような意匠で、何本もあるものではない。
「これは直通路の?」
華奢な棒の先端についた凹凸のかたちが、セレナの持つ鍵とはすこし違うようだ。
「しばらくセレナ嬢一人になってしまうからね。私の手元にないほうが安心できるだろう」
「……お二人が望んだ結果なら」
「今も昔も、これから先も。私の望みは変わらないよ」
手のひらに乗っていた鍵ごと、ナリトの手にぎゅっと握り込まれた。形のよい唇は笑みを模っているけれど、青い瞳は底がみえない。きっとジルの言葉はナリトを傷つけた。それでも、偽りのない本心だった。
閉じた扉の鍵を探すよりも、開かれた扉をくぐり心を通わせてほしいと思った。それがセレナでも、レイチェルでも、ジルの知らない誰かでも。自分よりもずっと、ナリトを幸せにできるのは確かだから。




