231 晩餐と礼儀
それからもレイチェルを中心に会話は進み、合間にナリトがセレナや騎士たちへ水を向けるといった状況が続いた。
神殿騎士団の話題になったとき、邸の主人ばかりを映していた金色の瞳が初めて騎士二人へ向けられた。貴族令嬢として修めた教育がそうさせたのだろう。レイチェルは社交辞令ながらも、ラシードやデリックへ魔物討伐に対する労いの言葉をかけていた。
この晩餐で、従者だけが一言も発していない。
――おいしい。
そんな状況を、ジルはありがたく堪能していた。
デザートだと言って饗されたものが、チョコレートの塊だったのだ。正確にはチョコレートのケーキなのだけれど、これは塊と評しても過言ではない。
チョコレート色の生地が二枚重なり、間にはこれまたチョコレート色のクリームと、甘酸っぱいジャムが塗られている。ジルが初めてチョコレートを頂戴したとき、ナリトはまだ市場に出していないと言っていたから、これだけでもいくらの費用が掛かっているのか想像もつかない。そこへさらに、このケーキは表面にもたっぷりとチョコレートがかかっていたのだ。なめらかな光沢をまとった姿はまさに、チョコレートの塊。夢のような菓子だ。
ケーキに添えられたふわふわの白いクリームは甘くない。しかしチョコレートがとても甘いため、一緒に食べるとまろやかになり二つの味を楽しめた。
――ああ、なくなっちゃった。
紅茶を口に含めばさっぱりとし、まるで初めて食すようなとろける甘みを何度でも感じられる。まさに至福のひと時だった。
大食堂に入りジルが椅子に近づいたときから、レイチェルはいい顔をしなかった。だから主人であるナリトも、いつも話しているセレナも、ジルには声を掛けなかったのだ。そのお陰でジルは金色の棘にちくちくと刺されることなく、平穏に食事ができた。
これで終わりだ。紅茶を飲みながら心のなかで気遣いに感謝をしているそのとき、主人に名を呼ばれてジルの両肩は跳ねた。
「エディ君、あとで私の部屋に来てくれるかな?」
「僕ですか?」
隣席にラシードがいて良かった。鍛えられた大きな体によって、棘の飛翔はいくらか減衰している。
「君宛てに、ソルトゥリス教会から手紙が届いているんだ」
「使用人から渡せば宜しいのでは? ナリトお兄様がすることではないわ」
――私もそう思う。
もっともな横槍にジルも同意した。しかし、教会からの手紙という存在はとても気になった。わざわざナリトから渡すということは、これが例の書物ではないだろうか。異議を唱えるレイチェルに構わずジルはその場で一礼した。
「かしこまりました。セレナ神官様をお送りしたのち、タルブデレク大公閣下の執務室へお伺いいたします」
「寝室で構わないよ。そちらの方が君たちの部屋から近い」
余程の衝撃だったのか、静かになった令嬢へそっと目を遣れば口元に手をあて固まっていた。大公の執務室は、表に建つ贅を尽くした城にある。シャハナ公爵家の敷地内とはいえ、夜道を歩かずにすむよう配慮してくれたのだろう。
上辺をなぞればそれだけだ。それなのに、レイチェルはどうして驚いたのだろうか。大公の寝室に呼ばれたとはいえ、今のジルは女性ではない。ナリトと同性である弟に扮しているのに。
「お気遣いに、感謝いたします」
ジルが了承の挨拶を返せば、青い双眸はやわらかに細められた。
◇
来月は領主の誕生日。予想外の情報を入手したジルとセレナは、何かお祝いをしたほうがいいだろうかと、頭を捻らせていた。ラシードとデリックは会話に参加する気がないのだろう。口を閉じ、護衛らしく後方を歩いている。
大食堂から部屋へと続く壮麗な廊下に、四人の足音と二人の話し声がてんてんと落ちていく。そこへ、床にひびが入らんばかりのヒール音が割り入った。
「そこの貧相な貴方」
最近は食べられる量も増えたし、栄養も摂れている。身長と筋肉はもう少し欲しいけれど、昔に比べればずいぶんと増えたほうだ。それでも、該当者が自分であるのは間違えようもない。
つい数分前まで聞いていた声に振り返れば、胡乱げな目とかち合った。ジルは無表情の仮面をつけ、トゲトゲを生やした青バラの令嬢へと軽く頭を下げる。
「お呼びでしょうか、エヴァンス公爵令嬢レイチェル様」
「あら、礼儀をご存じでしたの」
晩餐にジルが同席したのは、邸の主人に招かれたからだ。けれどレイチェルはまだ納得がいかないらしい。否、ジルがナリトの部屋に呼ばれたからぶり返した、というのが正しいかもしれない。
「忠告して差し上げる。ナリトお兄様には、ご兄弟のようにして育ったユウリがいるのだから、分不相応な望みは抱かないことね」
「……拝聴いたしました」
ジルは一拍の間をおいて、先ほどよりも深く腰を折った。その不自然な空白をレイチェルは、言葉に詰まったため、と判断したのだろうか。胸に刻んでおきなさいと念押しし、侍女を引き連れて去っていった。
「領主様とカライト様は仲良しだよね」
「はい」
「望みってなんだろう?」
「なんでしょう?」
銀と淡紅金、二つの頭が傾いた。先ほどジルの反応が少し遅れたのは、レイチェルが何を言いたいのか分からなかったからだ。これがセレナ、ヒロインへ向けて放たれた言葉なら理解できた。
――平民が大公夫人になれると思うな。
しかしレイチェルの言葉はエディ、従者へ向けられていた。あの場で意味を問えば話が長引きそうだった為、聞きました、とだけジルは返したのだ。




