227 宿泊棟と意地悪
このあと北方騎士棟に行くのかと尋ねられたジルは首を振った。義父とはガットア領でたくさん話したから、今日はできるだけエディと一緒にいたいのだと伝えれば、起伏の少ない顔に喜色が浮かんだ。
「やっぱり二人一緒に迎えるのが正義だな」
「二匹のウサギを追いかけても、っていう言葉があるそうですよ?」
「一つの石に二羽とまってもらいます!」
「分かりました。今この時からデリック様はライバルです」
心の補充をしているジルの横で、なにやらデリックとセレナも楽しそうに話していた。エディは二人の会話を聞いているのかいないのか、無反応で自分とジルの長剣に土産の紐を結んでいる。少し手元が見えづらいだろうか。窓から差し込む陽は色を変え始めていた。
セレナは寄宿舎と宿泊棟、転移陣の間への移動しか許可されていないため、まだここに居ても問題ないはずだ。夜が来る前に他所へ移動したい人がいるとすれば。
「ナリト大神官様は、お時間大丈夫でしょうか。他にご用事はありませんか?」
「君より優先されるものなんてないよ」
「そ、そうですか」
魔石ランプを灯すそばで、黒い艶やかな長髪がさらりと流れた。もの言いたげな弟の気配をちくちくと感じる。いつの間に好意を持たれたのか分からない。けれど不可抗力とも言い切れない後ろめたさから、ジルは曖昧に笑って二人から視線をずらした。その先で。
――ここにもいた。
ジルが望むなら女神をも斬ると宣言したラシードに、真顔で頷かれた。話題を変えよう。
「セレナ神官様、本日はどちらでお休みになりますか?」
「ジルさんのご希望に合わせますけど……一応、理由をお訊ねしましょうか」
そう言ったセレナは首を傾げて水の大神官を見た。儀式の報告で帰還した日は、教会領で一泊するのが慣例となっている。それを教皇の近侍にかけ合い、転移の許可を得たのはなぜか。
「一秒でも長く、愛しい瞳に映りたいから、かな」
整った薄い唇は、なんの躊躇いもなく言の葉を砂糖漬けにした。灯りをともすため、椅子に座ったナリトの近くに移動していたジルは覗き込まれる格好となっており、対象を取り違える余地もない。
「宿泊棟に泊まりましょう、セレナ神官様」
ジルは視界に収める対象を素早く変更し、力強く提案した。急ぎの政務がある、手紙の件について話したいなどの答えが返ってくると思っていた。そうでないなら、まだ教会領では行程にない動きはしたくない。
快諾してくれたセレナと共に、ジルは狭い自室で可能な限りエディと同じ時間を過ごした。
◇
「昨夜は色々とお計らいいただき、ありがとうございました」
目覚めたばかりの太陽と、魔石ランプの光が折り重なる静謐な廊下。リシネロ大聖堂の最上階に設けられた両扉の前でジルは一礼した。石床を踏む靴音が止み、低く玲瓏な声が流れる。
「良い時は過ごせた?」
「はい。とても」
心の栄養たっぷり、溢れんばかりの笑顔が零れた。そんなジルの顔につられたのか、差し込む朝陽が眩しかったのか。煌めく青い双眸を細め、ナリトの顔も嬉しそうにとけた。
すっかり陽も落ち、そろそろ宿泊棟へ入ろうとなった昨日の夕食時、水の大神官から提案があったのだ。せっかくだからエディも宿泊棟に泊まるといい、ジルの客室を二人部屋に変えてある、と。
聖女一行の宿泊費用はかからないけれど、神官見習いに扮した弟は立場が違う。だから宿泊棟を利用するには勧進という名の、それなりの代金が必要だ。それをナリトは事も無げに負担してくれたのだ。
初めはとんでもないと姉弟で遠慮したけれど、戻ってきたご褒美だとナリトに返されてしまった。エディはジルが倒れたことを知らない。自ら墓穴を掘るわけにもいかず、ジルはありがたく厚意を頂戴した。
日数でいえば半年しか経っていない。けれど弟と一緒に食事をしたのは随分と昔のことのようで。姉弟の客室に運ばれてきた名も知らない料理は、どれも頬が落ちてしまいそうだった。
それからジルは、押せば跳ね返ってくる上質な寝台の感触を堪能し、エディが呆れ顔になったところでぼふりと身を沈めた。
眠る前にはおやすみと送り出し、目が覚めたらおはようと出迎える。何日、何年と繰り返した挨拶だ。
陽が昇る前に二人は起床し、騎士たちと一緒に日課をおこなった。素振りが終わった弟は寄宿舎へ、ジルは聖堂棟へと足を向けた。
セレナとラシードはすでに扉をくぐっている。水の聖堂へ転移する前にと、ジルは水の大神官を呼び止めたのだ。
「それと……意地悪をしてしまい、申し訳ございませんでした」
「意地悪?」
「宿泊棟を選びました」
ナリトはタルブデレク領を希望していたのに、ジルは明確な理由も告げず教会領を選んだ。不満に思うのは当然だろう。しかし、目の前の貴人は邪険に扱うどころか姉弟を歓待してくれた。
教会領で不要な行動はしたくない。ジルが思考したその裏に、照れ隠しがなかったかと言われれば嘘になる。自分の幼い反応を内省していると、頭にやわらかなものが軽く触れた。
「私は家族と一緒にいたいからだと思っていたよ」
「エディ、セレナ神官様が待ってるぞー」
「え、わっ」
掛けられた言葉の意味を理解する間も無く、ジルはデリックに背を押されて転移陣の間へと進んだ。




