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傾界の聖女  作者: たま露
【火の領地 編】
219/318

218 名前と再会

「エディ、くん、お待たせいたしました」


 弟に敬称をつけるのは不思議な感じだ。男装したセレナは、予め決めていた待ち合わせ場所で待っていた。


 湖よりは小さいけれど、噴水よりは大きい。闇と灯を映した水面は、時折り吹く風に撫でられ細かな波紋を作っている。オアシスへの道は閉ざされているため、再会や生還を願う者は町の貯水池にキャンドルを置いていた。


「ううん。わた、僕もいろいろ迷っちゃってたから大丈夫だよ」


 買いたい物があると言っていたセレナの手には小さな袋があった。いいものがみつかったのだろう、とても嬉しそうに水蜜の瞳を輝かせている。


「デリック様、ご助言ありがとうございました。ここからは、セレナさんをお願いします」

「御意のとおりに!」


 騎士服を脱いでいるのも忘れてビシッと敬礼したデリックは、ジルの隣に移動してきた。間に割って入りラシードの体をぐいぐい押している。朱殷色の瞳はジルを一瞥してセレナの護衛に就いた。


 ◇


「オレが奢ったのに」

「ラバン商会の件がありますから」


 露店をいくつか覗いたあと、ジルとデリックは長椅子に座りオレンジが爽やかに香る果実水を飲んでいた。甘いお菓子ばかり食べていたから、すっきりとした酸味がおいしい。


 時計はそろそろ日を跨ぐころだろうか。夜通し行われる(ともしび)の祭だけれど、親子連れは数える程しかいない。それと入れ替わるように、お酒で陽気になった大人たちが目に入った。ふわふわと楽しそうな足取りで、火に当たってしまわないか少し心配だ。


「ジルはもうキャンドル点けたのか?」

「灯していませんけれど……デリック様、名前」

「別に誰かの振りをしてるワケじゃないんだからいいだろ」


 確かに今は弟の振りはしておらず、セレナの身代りをしているわけでもない。髪色を変えてはいるけれど、細やかなレースや刺繍が優美な女性の衣装に身を包んでいる。自分の名前のままでも、いいのだろうか。


「オレもまだなんだ。ラシードに先越されなくて良かった。おっちゃん、ご馳走さん!」


 からになった二つのコップを返却したデリックは、迷っていたジルの手を取り立ち上がらせた。そのままするりと人の波を横断し、キャンドルを売る露店の前で足を止める。商品棚に並んだキャンドルはどれも手のひらに乗る小さなものだけれど、形は様々だ。


 そのなかから手早く円形のキャンドルを二つ選んだデリックは、ジルが口を挟む隙もなく支払いを済ませてしまった。店主の挨拶を背に受けながらたどり着いた先は、セレナと待ち合わせた場所だった。


「これジルの分な」

「あ、はい」

「悪ぃ、別のヤツが良かったか?」

「いえ、ありがとうございます!」


 瞬く間に貯水池まで戻ってきたジルは、呆気にとられていた頭を慌てて左右に振った。貯水池はオアシスにある泉の代わりだ。ここに想いを灯すということは。


「お逢いしたい方が、いらっしゃるのですか?」


 デリックは攻略対象ではないから生い立ちを知らない。家族や友人だろうか。いずれにしてもジルの知らない大切な人だろう。そう考えた瞬間、手のひらが重たくなった気がした。引きずられて下がった視界に、溶けて芯の短くなったキャンドルが映る。


 夜風に吹かれた小さな火が大きく傾いだとき、頭上からぽつりと声が降ってきた。


「ジル」

「え?」

「ん?」


 反射的に振り仰げば、にこにこ笑顔のデリックが首を傾げていた。名前を呼ばれた理由が分からずジルの首も傾ぐ。自分はここにいる、デリックの目の前に立っている。


「お祭りで祈願するのは再会、ですよね?」

「だからジル。生まれ変わっても逢えますよーに、ってな。こればっかりは女神様頼みだ」


 溶けたキャンドルからデリックは火を繋ぐ。水をせき止める石造りの堤に、新たなキャンドルが飾られた。灯された火がやけに輝いて見えるのは、ジルの瞼が忙しなく開閉を繰り返しているからだろうか。


 ――そんな考え方もあるんだ。


 今のことばかりを考えていたジルには目から鱗だった。感心のあまりデリックをじっと見詰めてしまう。願い終えた騎士は、視線が重なるなりサッと片手を突き出した。


「何も言わなくていい。自分でも未練がましいと思ってるから!」


 驚いて言葉も出なかったため、嫌がっていると勘違いされたようだ。そんなことはまったく思っていない。誤解を解くため、ジルは今夜二度目となる頭を振った。


 弟は自分が護る。魔物は剣で倒せばいい。祈りや願いはなにも齎さない、無意味なものだとジルは思っていた。


 けれど確かに、人の手には届かないものもあるのだ。


「私も、デリック様に逢いたいです」


 素敵な想いだと満面の笑みが浮かんだ。ジルはなにも返せていないのに、そう思ってくれるデリックはとてもやさしい。


「本当に!?」


 ジルに感化されたのか、デリックの顔にもぱっと笑顔が咲いた。キャンドルに照らされた頬は朱に染まり、深緑の瞳は輝いている。


「はい! エディやウォーガン様、他の皆さんにも再会できたら嬉しいです」

「ん。オレもジルが喜んでくれて嬉しい」


 一瞬、デリックが固まったように見えた。今は楽しそうな顔でキャンドルを飾ろうと促している。ジルは先ほど見た方法に倣い、手元の芯に火を移した。


「デリック様の灯火を分けていただきましたから、――っ」


 続く言葉は音にならなかった。ジルは迷いなく自身の裾をまくり投擲用ナイフに手をかけた。

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