213 余波と染料
夢でみたよりも、情勢は悪化している。そうとしか思えない。
ランクを超えた魔物の出現にしてもそうだ。ジルの戦ったあの一体がたまたま強かっただけ、あの時はそう考えていた。しかし各地で初級に限らず、中級や上級ランクにまで異変が生じていると聴き、背筋に冷たいものが這った。
ゲームで変異体なんて呼ばれる魔物は、登場しなかった。
これまでも夢と違うことはたくさん起きている。魔物に関してもその一つに過ぎないのかもしれない。しかし、それでも。ジルのなかで芽生えた懸念は、ぐんぐんと影を広げていく。
エディの死亡を回避するために、ジルは夢でみた出来事を変えている。その余波で魔物が狂暴化しているのなら。
――私のせい……?
大きな寝台にかかった影のなか、身を丸くしてジルは両膝を抱えた。石造りの壁は陽射しを遮り、細やかな透かし彫りの窓は常に風を通しているため、じっとしていれば汗はかかない。
だというのに、ガットア領の気候がかかせる汗とは異なる嫌なものが、じわりと滲む。
自分はなにか間違っているのではないか。この道は本当に正しいのだろうか。初めはただ、殺される弟を助けたいだけだった。ヒロインに会って、聖女という名の生贄を廃止したいと思った。
皆が暮らしやすいよう、生界から魔物をなくしたいのに。もしかしたら自分は、魔物を増やし、そのうえ強化しているのではないか。抱えた膝をさらに強く引き寄せて、震えだそうとする体を抑え込む。
「諦めたくない」
ナリトはジルを、他者を想い行動できる人間だと評した。それは違うと今なら断言できる。ジルもナリトと同じように、見知らぬ領民よりも、弟ひとりを喪うのが怖いのだ。
だからといって、次代の聖女や無辜の民を犠牲にしてもいいと割り切れるほど、自分は強くない。
魔力と一緒に流れ込んできたクノスの記憶に、なにか情報はなかっただろうか。クノスとルゥが共にいたとき魔物はいなかった。魔物が現れたのは二人が離ればなれになってからだ。もしかしたらジルが知らないだけで、大昔には変異体がいたのかもしれない。
――でも、ゲームにはいなかった。
やはり自分が変えたから。ジルの思考は同じところに辿り着き、またぐるぐると巡っていく。いったい何度それを繰り返しただろうか。次第に意識は深みへとはまり。
「っ!」
「失礼いたします。ラバン会頭の使いで参りました」
扉を叩かれて跳ね起きた。いつのまにか眠っていたようだ。咄嗟に握り締めていた短剣を枕のしたに戻したジルは、ひとつ深呼吸をして使用人を招いた。
「お支度のお手伝いをいたします。まずは汗をお流しください。お着替えはこちらを」
「えっ、ま、待ってください。着替えないとダメなんでしょうか?」
薄紅の衣をまとった使用人は一礼すると、併設された浴室まで流れるようにジルを誘導した。扉に手をつき振り向けば、使用人はにっこりと頷いた。
「こちらも報酬に含まれております」
仕事の対価とは押し付けられるものだっただろうか。とはいえ、自分が望むままに与えられるものでもない。
「ハワード様の御髪は月光のようですから」
「あ……そうですね」
催されるのは、闇に負けないという願いが籠められた祭だ。そんな日に銀髪のジルが夜に出歩いていれば、妖魔が現れたなどと騒ぎになってしまうかもしれない。騒がれなかったとしても、皆の興をそいでしまうだろう。
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
ジルが気兼ねなく祭を楽しめるよう、ファジュルは配慮してくれたのだ。髪を隠すために帽子やスカーフを巻くのだろうか。着替えだと渡された空色の布に目を落とせば。
「こちら、ラバン商会で鋭意開発中の髪専用染料でございます!」
溌剌とした声に視線が引っ張られた。さすが商会に雇われた人材だ。筒状の缶を両手で挟み笑顔で語る様は商人のようだった。
開発中と付けたのは、まだ染料の定着が弱く、洗えばすぐに落ちてしまうからだそうだ。染料を髪につけた後はしっかりと乾燥させる必要があるとのことで、先に湯浴みを済ませてほしいと再び使用人からお願いされた。
――染料の試験も兼ねてそう。
着替えの必要性を理解したジルは手早く湯浴みを済ませ衣装を身に着ける。さらりとした空色の布はすっぽりと足元を隠しており、歩くたびに紫の刺繍が踊る。同色の上衣は首から胸元、袖が優美なレースの切り替えとなっていた。
「まあまあまあ! なんてお美しい! 水色のお召し物にかかる銀の御髪は、きらめく水面のようでございますね。清涼感に満ちたお姿はまさに水の精霊!」
浴室前で待機していた使用人は、ジルの姿を認めるなり興奮気味に口を開いた。髪を染めてしまうのはもったいないとまで嘆いている。
「あの、これ女性用では……?」
「はい。変装も兼ねております」
本日二度目、使用人はにっこりと頷いた。祭とはいえ夜遊びだ。念には念をいれるらしい。
「御髪はつけ毛で伸ばします」
使用人がジルの部屋を訪ねて三時間。ようやく支度を終えたころには、ジルは椅子の上で船をこいでいた。




