210 手当とレモン水
「初級と中級がいたな。きっちり倒しといたから心配はいらないぞ」
ソファまで移動していたデリックは振り返り、軽い調子でなんでもないことのように答えた。
遭遇した魔物すべてを一人で討伐したのだろうか。自警団や居合わせた者と共闘したとしても、交戦したことに変わりはない。ガットア領はデリックの担当外だからと素知らぬふりをせず、神殿騎士の本分を果たしたうえで到着日を早めたのだ。
ジルの護衛をするために。
「お務めについては心配していません。ですけれど、」
居住棟の裏庭で抱え上げられたとき、デリックの動きに違和感があった。初めは自分が長剣を持っていたからだと思ったけれど、地面へ下ろされたときに原因が分かった。ジルは扉前から歩を進め、深緑色の瞳を見上げる。
「ケガの手当はさせてください」
曲げ伸ばしする腕の動きが硬かった。おそらく魔物との戦闘で筋を痛めたのだろう。ジルが治療を申し出れば、デリックの顔に一瞬驚きが加わり、すぐ笑顔の奥へと引っ込んでいった。
「オレ絶好調だけど」
「肘の動きが悪いです」
「余裕で颯爽と到着! って格好良くない?」
「先ほど、とても眠たいとおっしゃっていましたよね?」
「あー、言った。ジルの顔みたら気が緩んで言っちまった」
隠していた悪戯がみつかったのを誤魔化すように笑い、デリックはソファへと腰を下ろした。観念した様子の騎士へ、ジルは患部を晒すようお願いする。身につけていた黒い上着は背もたれに掛けられ、まくられた袖の下から少し熱をもった肘があらわれた。
――弦が当たったところ、治さなくてよかった。
裏庭での鍛練中、ジルは弦で腕を払っていた。セレナの射た矢がとすんと板に刺さるのをみて、興味が湧いたのだ。自分は刀剣類しか握ったことがない。弓とはどんなものなのだろうか、と。結果、ジルは自分の腕に弦を当てていた。その場で自己回復してもよかったのだけれど、いつもの癖で魔力を抑えていたのだ。
右肘を差し出したデリックの隣に座り、ジルは自己回復をおこなった。現れた光は二人の腕を繋ぐようにふわりとまとわり、すぐに消える。
「すげえなこれ! そりゃ皆が聖神官様って持てはやすわけだ」
瞬時になくなった痛みの残滓を探すように、デリックは肘の曲げ伸ばしを繰り返した。深緑色の瞳は驚きと感動で輝いている。ジルは騎士の役に立てたようだ。デリックの明るい雰囲気にあてられて、ジルの顔も綻んだ。直後に手を握られる。
「けどオレが一番癒されるのは、ジルの笑顔だから。治療ありがとな」
視線を手元から上へと移動させれば、赤茶髪の騎士は朗らかに笑っていた。青みがかった緑の瞳は分かりやすいほどの好意を湛えており。
「肘を痛めたままで、職務に支障がでてはいけません、から」
瞬きをするたびに、手や頬に熱が集まるのを感じた。デリックの表向きの職務は、セレナと大神官の護衛だ。じきに魔物調査も再開されるだろう。小さな傷がきっかけで、デリックが不利になるといけないから治したのだ。そんなことをつらつらと考えていたら、勝手に口は尖っていた。だから今のジルはむくれ気味なのに。
「さっきの取り消し。笑顔じゃなくても癒される。かわいい」
人好きのする笑顔は輝きを増し、大いに喜んでいた。なんの衒いもない、分かりやすいデリックの言葉に身の置き所がない。セレナはまだだろうか。まるでジルが思い出すのを待っていたかのように、扉が叩かれた。
「遅くなっちゃいました。ええっと、私ちょっとお散歩してきますね」
現れたセレナには後光が差していた。しかし救いの神は水差しをテーブルに置くと踵を返そうとする。部屋から出て行かないでほしい。セレナを引き留めようとジルは手を。
「ああああ、違います! 治療をしていただけで、もう終わりました!」
デリックに手を取られたままだった。隣り合って座った男女が手を繋いでいたら誤解するのも当然だ。ジルは慌てて立ち上がりソファから離れる。近くでカシャンと硬質な音がした。
テーブルにグラスの載ったトレイが置かれていた。無言で近づいていたラシードは、やはり無言で離れていく。均整のとれた長躯は迷いなく応接室の扉を閉め、壁際に控えた。なにも喋っていないのに分かりやすい。
「セレナ神官様、ラシード様、お茶のご用意、ありがとうございました」
場を落ち着かせるために、ジルは少し長めに腰を折った。だから顔を上げた時には、すでにセレナが水差しを手にしていた。輪切りにされた黄色い果物が水のなかで揺れている。
「疲れてるってお聴きしたから、お水にレモンをしぼってみました」
「いただきます!」
「エディ君もどうぞ」
「ありがとう、ございます」
自分が注ぎます。その言葉を挟む隙はなかった。セレナが故郷にいた頃はこうやって来客を持てなしていたのだろうか。流れるような所作で、どこか楽しそうな雰囲気を感じる。
「うまっ。これ騎士棟でも作ってもらおう」
「それならあとで作り方を書いてお渡ししますね」
「お水に、果汁をいれるだけではないのですか?」
「はちみつと、お塩も少し入ってるの」
そう言ってセレナは得意そうに笑った。口に含んだレモン水は少し酸っぱくて、ほのかに甘い。爽やかな後味は、何杯でも飲めてしまえそうだ。現にデリックはすでに飲み終えており、二杯目を注がれている。
「あ、そうだ。伝言です。今日からまた、ファジュル様のお邸に戻るんだって」




