196 岩と腕
<残酷な描写あり>苦手な方はご注意ください。
パキッと軽い音が立った直後、ジルの瞼は強烈な光に焼かれた。地鳴りを感じたときには視界がひらけていた。剣先のような岩が魔物の上顎を押し上げている。狙い通りだ。口が閉じる前に早くここから。
「ジル!!」
「エディ!!」
大きな手に体を掬い上げられた。割れものを扱うように抱え込まれている。すぐ傍には怒っているような、泣き出しそうな顔があった。鈍色の眉を寄せ、苦しそうに朱殷色の瞳を歪めている。褐色の肌には血がついていたけれど、傷は深くないようだ。
――しまった。
ジルは慌てて魔力を抑え込んだ。自己回復は右腕の骨を薄い肉で覆って止まった。裂き抉られた皮膚はひらいたままで熱いのか寒いのか分からない。引きずるようなだるさと激痛に汗が滲む。それでも、ラシードに聖魔法を知られてはいけない。
「エディを連れて出ろ」
不安から幻聴が聞こえたのだとジルは思っていた。聞き間違いではなかった。義父の声だ。
指示に応えたラシードが身を翻した。ジルは目で声の出所を探す。魔物の黒い鱗、視界一面に生えた岩の杭、砕けた石、焦茶色の。
「頑張ったな」
ぽん、と頭に大きな手が触れた。すれ違いざまの僅かな時間。ジルにぬくもりと安心感を与えてくれる焦茶色の瞳が離れていく。視界の端で大剣を構える姿が見えた。砂色の壁が近づいてくる。大きな壁のすき間を抜け、ラシードが足を止めた。
「防壁を閉じます! ハワード団」
「退がってろ」
知らない騎士の喚起は不自然に途切れ、燃えるような風が肌をなめた。壁があるのに。壁の向こう側から、太陽が落ちてきたような熱を感じる。揺らめく景色のなかを長躯の騎士が駆けていった。壁の向こうには――。
「危険です!!」
「っ、はな、して……っ」
腕の痛みも忘れてジルは騎士を押し退けた。しかし一歩も進まないうちに捉まってしまう。騎士の力にジルが敵うはずもない。それでも進まない地を蹴り、頑是ない子供のようにもがき続けた。
義父は防御力の上がる強化魔法が得意だ。大丈夫。強い護衛騎士も加勢に向かった。大丈夫。大丈夫だ。
それでも、それでもやっぱり姿を見るまでは。
「――おとうさんっっ!!」
ジルが叫んだと同時に壁の向こう側から二つの影が現れた。駆け寄った直後、壁のすき間が埋まった。上の方で号令のような声がしたあと足元が大きく揺れた。震える視界のなか、遠くでごうごう、ざわざわとなにか音がしている。
それが、まったく聞こえなくなった。どくどくとうるさい心臓だけが、鼓膜を殴りつけている。
「心配かけたな」
大きな手に、わしゃわしゃと頭を撫でられた。姉弟を、領民を護ってくれる大きくて強くて、やさしい手。ジルの好きな義父の手だ。
「ぁ、」
安心して、嬉しくて。
「や……だ、」
怖くて悲しくて。
「ごめんなさい!! ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさぃ、ごめんっ、…さい、ごめんなさい!!」
目の前がぐにゃりと歪む。
「わた、わたしがっ、私がいたから!! ごめんっ、ごめんなさい、ウォーガンさまごめんなさいごめんなさぃ、ごめっ、なさ……っ」
ジルの好きな義父の手が、ひとつ消えていた。
肩より先のないウォーガンの顔色は悪い。体を支えたラシードが救護員を呼んでいる。腕があった場所から血は流れていない。義父の左腕はどこにいったのだろうか。つい先ほどまで付いていたのだ。今なら聖魔法でくっつけられるかもしれない。
「すこし、だけ、待っててください」
しがみ付いていた騎士服からジルは体を離した。濡れた視界を手ではらい砂色の壁を見上げる。
「腕を探してきます」
「お前のせいじゃない」
「私のせいです!! このままじゃウォーガン様は剣が……!」
「俺は大丈夫だ。それよりも自分のケガを治せ」
「そうか」
忘れていた。腕ならここにあった。大きな義父の腕に比べればとても細いけれど、うまく繋がるだろうか。腰につけた短剣へと伸ばしたジルの手は、空を掴んだ。
「ぁ、口のなかだ。ナイフだと小さすぎるし……そうだ。バクリー騎士様、私の腕を斬っていただけませんか?」
大剣なら簡単だろう。そう考えてジルは左腕を広げたのに。頭上の顔は眉間に皺を寄せるばかりで動かない。そういえばラシードも大きな魔物と戦っていた。疲れているのだろう。無理はさせられない。難しいけれど長剣をどこかに固定して。
「放してください」
「放さない」
「っ、邪魔しないで……!!」
「ジル、こちらを見なさい」
ひどく落ち着いた、毅然とした声音に呼吸が止まった。ラシードに腕を掴まれたまま、ジルは顔を声の方に向ける。岩のような体は地に膝をついていた。ジルと同じ高さ、目と鼻の先に、焦茶色の瞳がある。
「俺は、お前の親だ。親が子を護るのは当然のことだ」
「でもっ……!」
「腕一本でも剣は振れる。あとで見せてやるから」
ひとつしかない、大きくて強くてやさしい手が、ジルの頭を撫でた。そのまま引き寄せられ、歪んだジルの視界は何も見えなくなった。顔を埋めた義父の肩からは、焦げたにおいがする。
「頼むから、自分のケガを治してくれ」
もう限界は超えていた。血を流し続けていた右腕はただぶら下がっているだけで、いつからか痛みも感じなくなっていた。
他者回復が使えるようになったのに、自分は肝心なところで役に立たない。
大切な人のケガを治せないなら、初めから聖魔法なんていらなかった。自己回復が発現しなかったら、あのまま死んでいたら。自分のせいで義父が、片腕を失うことはなかったのに。
なにもできない自分が情けなくて、悔しくて悔しくて、また涙が溢れてくる。
――魔力が多いだけじゃ、意味がない。
力の入らない、なにも掴めない右手に、一層の無力感を覚える。自分に聖女のような、ヒロインのような力があったら。
義父の腕も再生できるのに。
「ごめんなさい」
魔力を解放すると同時に、右腕は光の粒に覆われた。やわくあたたかな光はジルの傷口から溢れ、零れあふれて留まらない。
おびただしい光の粒は瞬く間に大きなうねりとなり、二人を包んでいった。




