193 福音と揺動
「帳簿、かな? ……いちおう、持って行こう」
ローテーブルに置かれた二冊の綴りには、数字とよく分からない文字が記述されていた。魔素信仰者とジャバラウ商会は繋がっている。それにジルを捕らえた大男は、人の売り先があると言っていた。犯罪調査の役に立つかもしれない。
とはいえ、ジルが探しているのは魔素信仰に関する情報だ。他に書物はないだろうかと引き出しや箱を手当たり次第にあけてゆく。荒れていく部屋の様子に、どちらが犯罪者か分からなくなってきたころ、また岩盤が揺れ。
「女神の福音?」
タペストリーと壁のすき間から、かさりと擦り切れた紙が落ちてきた。生界で女神といえばソルトゥリスしかいない。魔王クノスと対立している存在がもたらす良い報せとはなんだろうか。答えを求めて目を通せば、一つの植物が描かれていた。生態や育て方、採取に煎じ方。
「そんなのいない」
静かだった男の子がぽつりと吐き捨てた。魔素信仰は魔王を崇めているけれど、女神の存在は否定していない。どちらの主張とも異なるこの子は、不信仰者なのだろうか。もしかしたら、なにも信じられないほど酷い目に遭ったのかもしれない。ジルは紙をおりたたみ一冊の綴りに挟んだ。
――帰ろう。
魔素信仰者探しは一からになってしまうけれど、迷子の子供をこれ以上ジルの都合で留め置くなんてできない。一刻も早く家族のもとへ帰してあげたい。そんな思いから瞳に出口を映したとき、下のほうから小さな呻き声があがった。思っていたよりも打ち込みは浅かったようだ。大男は自力で意識を取り戻し、起き上がろうとしている。
「急に倒れて、びっくりしました」
「あ゛あ゛?」
「これ、持ってて貰えるかな?」
「うん」
明らかにジルが昏倒させたと気が付いている。けれど腰に下げた長剣へ手を掛ければ、大男は苦々し気に押し黙った。ジルが預けた二冊をしっかりと抱えてくれた男の子の頭を撫でて、剣を抜く。
「用事は済みましたので、帰ります」
来た時と同じ、大男を先頭にジル達は坑道を進んだ。牢へ続く道を横切り、廃鉱の出入口へと向かう。設置された魔石ランプの灯りは段々と弱くなり、陽の明かりが強くなる。薄暗さに慣れていた目に地上は眩い。それが不意に。
「チッ、降ってきやがった」
灰色に塗り替えられた。熱をはらんだ空気は一瞬で冷え、足元に雨水が流れ込んでくる。ザーザーと叩きつけるような騒音が坑道を震わせる。
にわか雨は短時間で止むはずだ。先に地上へ出ていた大男はあばら屋に駆けこんでいったけれど、男の子とジルはまだ廃鉱のなかで濡れていない。
「雨宿りして――っ?!」
突如、岩盤が咆哮をあげた。
まるで異物を振り落とすように坑道が大きくうねっている。雨のように降り注ぐ砂や小石から護るためジルは男の子に覆い被さった。激しい揺れに今すぐここから出なければと本能が訴えてくる。けれどでたらめな揺動に足元はふらつき立ち上がれない。出口はすぐそこだ。揺れが弱まったらすぐに。
――今だっ!
ジルは男の子を抱えて雨の幕に突っ込んだ。あばら屋にいけば雨宿りできるけれど、人攫いもいる。どこかいい場所はと周囲に目を走らせれば灰色のすき間からチラリと何かが光った。雨音に交ざり声も聞こえるけれど言葉までは聞き取れない。人攫いなら倒せばいい。そう決めて近づけば。
「ハワード様! ラバン会頭より帰還の命が出ております」
大きな傘を差し出された。あの光は魔石ランプだったようだ。どうしてジルがここに居ると知っているのだろうか。ファジュルの使いだという男性は使用人というよりも、市場にいた人達の雰囲気に近い。訝しい点はある。しかし害意は感じない。
「この子をみていてください。すぐに戻ります」
「お、お待ちくださいっ」
押し付けるようにして迷子を男性に預けた。自分にはまだ、やらなければならない事がある。焦り制止する声を背に、ジルは傘のしたから飛び出した。灰色に霞む視界のなか来た道を駆け戻る。
あの鉱山で落盤事故があったのをジルは知っていた。ファジュルの両親が巻き込まれた崩落を機に閉鎖されたのだ。危険で誰も近づかないことに目を付け、魔素信仰者はアジトに利用していた。ジャバラウ商会が管理していたから出入りもし易かっただろう。
先ほどまでジルがいたのは、ゲームのヒロインが囚われていたのと同じ廃鉱だ。ヒロインが攫われたのは七ノ月で、今はひと月まえの蜜ノ月だ。その月に限らず、ゲーム中は崩落なんて起きなかった。だから多少揺れたところで問題はないと考えていたのだ。でもあの震動は。
――崩れる前に助けないと。
暗い入口はぽっかりと開いたまま震えていた。がたがたと揺れる魔石ランプのした、倒壊した坑木の傍に人影をみつけた。




