190 下層民と大商人
教祖と呼ばれる人物を待っていては、陽が暮れてしまうどころか日をまたいでしまう。セレナには今日の夕飯までには戻ると伝えているのだ。間に合わないとしても、日付が変わる前にはファジュルの邸に帰りたい。食事が運ばれてきた時に大男を脅すか無力化するなりして鍵を奪えば、ここから出られる。
――教書とかあるかな。
牢を抜け出してしまえば、穏便に話しなどできないだろう。廃鉱の入り口から牢にくるまでの間、いくつか分かれ道があった。ここまで来たなら少しでも魔素信仰や魔王に関する情報を得たい。からり、と小石の立てた音にジルは顔を上げた。
「大きな男の人と、痩せた男の人。ここで、二人以外を見たことはあるかな?」
「まるいひと」
「他には見ていない?」
鉄格子の向こうで、こくりと濃紺色の髪が揺れた。坑道は狭く、一度に戦える人数は限られている。三人、聖魔法を使えばその五倍くらいまでならジル一人でも制圧できる。
静まり返った様子から、魔素信仰者たちは出払っているのだろう。戻って来るのが五日後なら、情報を探す時間はたっぷりとある。ただし、男の子を一人にはできないから一緒に移動して。そこでジルは気が付いた。大事なことを確認していない。
「ケガは? 痛いところはない?」
「いまは、だいじょうぶ」
「よかった。お腹はすいて」
空腹の有無を問い終える前にジルは口をつぐんだ。砂利を踏む音が聞こえる。岩盤に反響した足音が近づいてくる。ジルは鉄格子から離れ息をひそめた。
「一日や二日食べずとも死なんだろう。どうして私が下層民なんぞに」
不満げなうなり声とともに小太りな男が姿を現した。まるいひと、とはこの男のことだろう。憤慨しているのだと主張する足によって踏前が小刻みに揺れている。
「おい、飯だ。大商人たる私自ら運んでやったのだ。ひれ伏して感謝しろ」
小太り男の尊大な態度よりも、思いのほか早く届けられた食事にジルは驚いた。それと同時に目論見がはずれ焦りを覚える。食事は紙袋に入っており、鉄格子のすき間から放り込まれたのだ。これでは牢の鍵が奪えない。
「今は何時でしょうか? 向こうにいる子供の分は?」
「礼も知らんのか。これだから学のないヤツは」
「ありがとうございます……! 僕のご飯は、あの子にあげてください!」
鉄格子に近寄り声を張り上げれば、遠ざかりかけた足が止まった。ここで鍵を逃すわけにはいかない。どうにかして扉を開けさせるか、脅せる距離まで呼び寄せなくては。
「財もない下層民の分際で私に、」
苛立たし気に振り返った小太り男は、魔物でも見たかのように目を見開いている。途切れた言葉の続きは鉄が鳴らす鈍い音に引き継がれた。
「おまえ……あの時の神官見習いか?!」
鉄格子に打ちつけた肩が、男に掴まれ引っ張られた腕が痛い。ジルが手にしていた紙袋は牢の外に落ちていた。うわずった声が叫んだ名にジルは目を見開いた。なぜこの男は自分の正体を知っているのだろうか。
――わからない。
憤怒に染まった丸い顔。ジルの記憶にこの男はいない。見ているとすれば、教会領であることは確かだけれど。怒りに震えた手はぎりぎりとジルの腕を締め上げていく。掴まれた部分は赤くなっているかもしれない。
――あ。
「おまえのせいで、おまえとあの神官せいで! 私はこんな掃き溜めに!!」
思い出した。教会領の宿泊棟でみた丸い腹は、一回りほど小さくなっていた。牢の外にいる小太り男は、ファジュルの商会を追放された商人だ。男は鬱憤を晴らさんとなおもジルの腕を引っ張り続けている。鉄格子から出られない肩が冷たい鉄に沈む。
「あの女が手を回したせいでどこの商会にも断られ、妻子にも逃げられ! 商才も無いクセに、体を使って会頭になっただけのクセしてこの私を追放などっっ」
「自分のことしか考えていないあなたと、一緒にしないでください!」
夢で知った通りの人生を歩んでいるのなら、確かにファジュルは商会を乗っとるために色仕掛けもおこなっている。しかし幼いころから両親の商いを、引き離されてからも商売を学び続けている。商会の運営はお金を儲ける手段で、目的は商会員や使用人、その家族を養うためだ。
「あの女を知ってるのか? そうかおまえ達はグルだったのか! 私の商才に嫉妬してはめたのだな!!」
「腕を掴んでわめくだけの才能なんていりません。手を」
「はなせ」
商人の指へ添わせんと出しかけたナイフを、ジルは止めた。向かい側の牢から割って入った声音はひどく落ち着いていた。しかし、一滴の雫だけで岩に穴があいてしまうような鋭さをはらんでいる。
「おまえ等は自分の立場を理解していないようだな」
商人はこの異様に気が付いていないのだろうか。ふくれ上がった空気は狭い坑道に詰まり、小さく振動している。岩盤からはぱらぱらと砂や小石が転がり落ち。
「小僧仕事だッ! 魔物がきやがった!!」




