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傾界の聖女  作者: たま露
【火の領地 編】
188/318

187 休暇と市場

「夕飯までには、戻ってきます」

「東のほう、ジャバラウ地区には近づいちゃダメだからね」


 バターが香る薄焼きのパン。たくさんの香辛料が溶けあったスープ。朝食としてテーブルに並んだ料理は帆船で提供されたものと同種だった。しかし、今日のスープは甘みが強い。あの時は辛いばかりで分からなかったけれど、こんなにも味わい深かったのかとジルは驚いた。


 ガットア領の南方に浮かぶ島、ヴィリクルからナリト一行が帰領したあとも、ジル達は五日間留まっていた。ファジュルは引き続き商会の仕事を、セレナはガットア領について学び、ラシードは警護に就いていた。


「そうだ、ラシード様に護衛して貰おう!」

「休暇どころか拷問だね」


 ぱちんと両手を合わせたセレナの向かい側で、ファジュルはひらりと片手を振った。透かし彫りの大きな窓が美しい食堂では、ラシードも着席している。目を合わせないよう注意しながら正面を窺えば、護衛騎士は黙々と食事を摂っていた。


 聖女一行がヴィリクルを出たのは十六日前。火の聖堂があるオアシス都市に戻ってきてからは、建前である魔物調査を一度おこなった。商会とは関係のない調査をファジュルが真面目に遂行したのは意外だった。ガットア領は出だしから夢とは異なっていた為、もしや魔物調査に行かないのでは、とジルは考えていた。


 ――どこが一緒でどこが違うのか、予測できない。


 オアシス都市、タージャスタンにはラバン商会本拠地、兼ファジュルの私邸もある。聖女一行は私邸に滞在しており、ソルトゥリス教会の指示は使用人を通して届けられていた。


 部屋は各人に用意していると説明を受けたとき、ジルは大いに安堵した。視界に入らないと決めた日からジルは一人で日課を行い、食事やセレナの護衛時を除いては雑用に従事して、できるだけラシードに近づかないようにしていた。


「姉へのお土産を、買いに行くだけですから」


 ファジュルの言う通り、嫌いな人間と終日いるなんて拷問にも等しい。それにジルは、魔素信仰者のアジトを訪ねるつもりなのだ。離れたいのはジルも同じだった。とはいえ、セレナの護りが薄くなるのは不安だ。


「今日は僕の代わりに、こちらがお護りいたします」


 椅子から立ち上がったジルはセレナの背後に回り、首に革紐をかけた。胸元に収まった焦茶色の魔法石に目元が緩む。ジルに、落ち着きとぬくもりを与えてくれる瞳と同じ色。義父は必ずセレナの身を護ってくれる。


「これは?」

「防御魔法が籠められています。万が一の時は、お使いください」

「だったらお出かけするエディ君が持ってなくちゃ!」


 魔法石に目を落としていたセレナは説明を聴くなり革紐に手を掛けた。ジルは背後からその手を押し留める。眉根を寄せて振り返ったセレナによく見えるよう、隣に移動して膝をつく。


「持っているので、大丈夫です」


 ジルは髪を耳にかけイヤリングを晒した。クレイグから貰った魔法石には攻撃魔法が籠められている。二つもあるのだと微笑んでみせれば、愛らしい顔の眉間に刻まれた皺がすこし薄くなった。


「お買い物が終わったら、まっすぐに帰ってきてね」

「子供の使いじゃないんだ。休みの日くらいエディの好きにさせてやりな」


 セレナとファジュル、どちらの言葉もジルを気遣ってくれていた。床から立ち上がったジルは二人に一礼を返す。


 ナリトの従者を務めた報酬。六日間ある休暇のうち一つを、蜜ノ月三十日にジルは申請した。


 ◇


 邸から馬車を出してもらったジルは、様々な店が集まっている市場を訪れていた。


 赤茶けた建物から張り出した布張りの屋根。クモの巣のように張られた紐には、織物や衣服、装飾品や食材などがいくつもぶら下がっている。砂の風景を鮮やかな色彩で覆った市場は活気に溢れていた。


「そこ行く銀色の坊や、喉が渇いてないかい? いまなら追加のクリームはタダだよ」

「?」

「そうそう。首を傾げてる可愛い坊やのことだ」


 辺りを見回せど銀の装飾をつけた人はいない。もしやと足を止めてみれば、気風のよさそうな年配の女性にジルは声を掛けられていた。


「ウチのはサッパリしてて飲みやすいのが売りなんだけど、クリームを混ぜたら甘くなるよ」


 店先に並べられた素焼きのコップ。その近くには大きな鍋があり、白い液体が入っている。ミルクとは異なるそれは、帆船の夕食でだされた飲み物とおなじ香りをしていた。これは美味しいやつだ。


 お店の女性から害意は感じない。他にも人が立ち寄り購入している。


「一杯、クリーム追加でお願いします」

「まいど! 坊や地の人間じゃないね。ここいらも物騒になって人攫いが流行ってるんだ。お使いか何か知らないけど、人通りから外れるんじゃないよ」


 まるで我が子を心配するような声音だった。忠告と同時に女性から手渡されたコップにはクリームがたっぷりと盛られており、期待が高まる。


「気を付けます。あの、この辺に古着屋さんってありますか?」

「向かい側のずっと先に敷物を売ってる店があるだろう。そこの脇路にあるよ。今はいいけど、暗くなったら近づくんじゃないよ。大人には勝てっこないんだから」

「はい。お姐さん、ありがとうございました」


 コップを傾けないように気を付けながら会釈すれば、親切な女性は心配そうな顔をしながらもジルを送りだしてくれた。


 ――馬車を降りて感じてた視線はそれかな。

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