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傾界の聖女  作者: たま露
【火の領地 編】
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184 犠牲と自分勝手

 寝台に倒れていた体は、ナリトの腕のなかへと移されていた。整った涼やかな顔は見る影もなく、苦渋に満ちている。聖魔法はもう発動していない。ジルがつけた切創はきれいに消えているはずだ。


「信じていただけませんか?」


 血で汚してしまったナリトの顔を袖で拭う。寝台にも紅い染みを作ってしまった。ファジュルにどう説明しようか。正直に首を斬りました、なんて言えば正気を疑われる。


「出逢った時から変わっていない。……どうあっても、自分を犠牲にするんだね」

「私は、自分がしたい事をしているだけです」

「信じるよ。そんな君に魅せられたのだから」


 ようやくといった様子で絞り出された声には、諦観が滲んでいた。長い指先が、愛おしそうにジルの目元を撫でる。


「あの日からずっと、この瞳に私を映して欲しかった」


 袖を掴んでいた指をひらかれ、手のひらに薄い唇を落とされた。そのまま手首にも触れ、首元に近づいてきたとき、ジルは慌てて腕のなかから転がり出た。ナリトから距離をとり寝台に座り直す。


「ま、まだお話ししていない事があります……!」


 触れたところに熱が灯り、さざ波のように広がっていく。治した傷が開くのではと思えるほど拍動が早い。そんなジルに反して、ナリトは落ち着いていた。


「その前に綺麗にしておこう」

「わっ」


 掌に青い文様が浮かんだと思ったら、紅い液体が宙に浮いていた。ジルはこの光景を見たことがある。リシネロ大聖堂の書庫で、教皇の近侍が行っていた魔法だ。二人の衣や肌、寝台に染み込んでいた血はあっという間に霧消し、鉄くさい風となった。


 ――よかった。


 すっかり元通りになった生地を見てジルは息をついた。これならファジュルに説明しなくてもいい。水魔法を使い終えたナリトは、青い双眸を細め続きを促してきた。いざ口にしようとすると、胸にちくりと痛みが刺す。


「私には、ナリト大神官様が望むような……想いは、返せません」


 声は段々と小さくなってしまった。それでも顔は逸らさず、瞳にはナリトを映し続けた。視界のなかで、微笑みを模っていた唇がひらく。


「ルーファス大神官とクレイグ大神官。デリック卿と、……今はまだこの辺かな」

「えっ、……あ、デリック様は違います」

「違う?」

「教会領に一時帰還したとき、弟に婚姻を申し込んでいましたから」

「それを言われたのは、エディ君の恰好をしたジル嬢かな?」

「はい」

「……配るほどの余裕は持ち合わせていないのだが」


 言葉とは裏腹にナリトの表情は穏やかなままだ。青い瞳も変わらず艶めいている。


「デリック卿の想いが離れたと分かったとき、ジル嬢はどう感じた?」

「当然だと、思いました」

「それだけ?」


 ナリトの問いにジルは答えられなかった。二人が幸せになるのなら、心から喜ばなくては。自分は断っていたのだから、寂しいなんて感じてはいけない。


 ――本当に自分勝手だ。


「君に妬いて貰えるあの騎士が羨ましいよ。悲しまなくていい。デリック卿はジル嬢だと気が付いている」

「なん、え、どうして」

「分かるさ。髪を切ったくらいで、愛しい唯一を見間違えるはずがない」


 ナリトは短くなったジルの髪をすくい、毛先に唇を寄せた。濡羽色の髪が揺れ、落ちていた顔が上がる。熱を感じる距離で視線が絡んだ。青を湛えた瞳は底がみえず、誘われるように引き込まれ。


「昨夜もご存じだったのですか!?」


 囚われまいと思いきり身を退いた。ジルが引きずったのに沿って上掛けが大きく波打つ。言葉の通りなら、見間違えていないのはナリトも同じで。


「再会した時からね」


 問題ないと思っていたのはジルだけで、すでに手遅れだった。いや、同じ寝台というならラシードとも。そういえばルーファスには抱きついたまま。クレイグには膝枕をして。教養の講師が聞いたなら卒倒し、義父からは雷が落ちること必至だ。エディと一緒に眠っていたから感覚が、そうだ、家族ならいいんだ。みんなが弟になれば。


 あちらこちらへと迷走するジルの思考に、楽しそうな声が流れ込んできた。


「何もしていないよ」

「当たり前です!」


 混乱と羞恥から語気が強くなってしまった。それでもナリトのやわらかな眼差しに変化はなく、大きな手はぽんぽんと寝台を叩いた。


「今宵はどうしようか」


 ――これは揶揄われてる。


「従者が大公閣下と寝室をともにするなど、ありえません。下がらせていただきます」


 初めからジルはそのつもりだった。話は終わったと床に立ち、右手の甲を額にあて騎士の礼をしてみせた。


「すまない。可愛らしい反応だったものだから。君はここを使いなさい。私が出ていこう」

「主人を差し置いて居座るなんてできません」

「その主人から従者への命令なら?」


 ジルは意趣返しで従者を強調したのに、それを逆手にとられてしまった。負けたことへの悔しさと、甘やかされている気恥ずかしさに唇が尖る。


「ナリト大神官様なんて嫌いです」

「私はジル嬢が好きだよ。話してくれて有難う。ゆっくりおやすみ」


 傍に移動してきたナリトはジルの頭に口付けを落とし、主寝室から出ていった。

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