180 浄化と存在
虫がいた。聖魔法に包まれた魔物は、虫に戻っていた。
ジルの背丈ほどあった全長が、今は小指よりも短い。短剣で裂いた胴は綺麗に繋がっており、白い毛を脱いだ薄茶色の虫はかさかさと落ち葉のなかに潜っていった。
聖魔法でも魔物は倒せる。否、聖魔法なら魔物を元の姿に戻せる。
その事実にジルの胸は高鳴った。聖女でなくても、神官見習いでも。聖魔法を直接注げば、その身に溜め込んだ魔素を浄化できるのだ。
魔素の発生源、魔王クノスの攻略方法を掴んだ気がして、ジルの口角は引き上がった。戦闘後の高揚が一足飛びに上がっていく。
ゲームの終盤、ヒロインは一人で聖魔法を使っていた。魔力が足りず行動抑制しかできなかったけれど、自分も加勢すればもしかしたら。
もしかしたら、闇に堕ちた今代聖女も助けられるかもしれない。
たとえ魔王討伐が失敗したとしても、この発見はセレナを、次代の聖女を救う一手になる。新たな発見に、見出した可能性に。湧き上がる気持ちのままジルは声を跳ねさせ振り仰いだ。
「見ましたか!? ただの聖魔法でも魔物に効果がありました!」
「そのようだね」
魔物が腹をみせたのと同じくして馬の駆ける音が聞こえた。それは、ジルの背後で止まっていた。
「魔物を浄化すれば、空気中に魔素は戻りません。これなら魔物の発生が減って、聖神官の出番も減ります!」
「そのためにまた、君は魔物に向かっていくのかな」
ジルの体は魔物に隣接していたし、聖魔法はもう傷口から零れだしていた。
「鍛えているので問題ありません。皆さんが穏かに過ごせる日がくるよう、私も頑張ります」
聖の魔力は女性にしか宿らない。もう誤魔化せない。だからジルは。
「水の大神官様のお役に立ちます。ですからどうか、見逃してください……!!」
深く深く頭を下げた。聖神官、つまり回復魔法がいらない世の中は、ジルが目指している魔物がいない未来と重なる。ナリトと敵対はしない、自分は有用だと訴えた。
短剣を持つ手に力が入る。肌に浮いた汗はすべり落ち、あたたかな風は体の熱を奪っていく。
ジルが話している間ずっと、水の大神官は無表情だった。聖魔法だけでは決め手に欠けるだろうか。瞼を閉じた暗闇のなかで、他に売り込めるものはないかと必死に探す。ジルが持っているもの、ナリトの役に立つもの。
――あった。
「それはできない」
冷徹な審判にジルの思考は凍てた。強制送還。その先の結末に手足が小さく震える。まだだ。まだ諦めるのは早い。提示できるものは残っている。
「セレナ神官様との仲をとりもつ事もできます!」
「必要ないよ」
「なにか、なにか仰っていただければ……私でもお役に」
持てるものはすべて示した。そのいづれも価値がないと言われてしまえば、交渉の席にさえつけない。自信があるのだと伸ばしてみせた姿勢がしぼんでいく。ジルの重ねたものなど吹けば簡単に飛んでいくのだとばかりに、足元でかさりと落葉が音を立てた。
「そのままでいい」
距離を詰めてきた水の大神官に短剣を取り上げられ、腰に付けた鞘へと戻された。さっそく連行されるのだろうか。両手を掴まれ、体の前で合わされる。
「君がいる。それだけで価値があるんだ」
何を言われたのか理解できなかった。存在するだけで価値がある人間なんて、生界にはひとりしかいない。
どういう意味かと見上げれば、視界に濡羽色の幕が引かれた。樹々の合間から零れ落ちていた陽射しは遮られ、頭上では深い青が揺蕩っている。
「他者回復が使えなくても、神官でなくとも。私にはジル嬢、君が必要なんだ」
希求を奏でる玲瓏な声色に、からかいの調子など一切ない。
「愛しい人が危険を冒しているのに、見過ごせるわけがないだろう?」
こんこんと注がれるあたたかな眼差しは、一向に冷めない。
「君が抱えているものを、私にも分けてくれないかな」
告げられた情報の多さに溺れそうだ。入れ替わりの露見については腹を括っていた。しかし、ナリトの愛しい人はヒロインではなかったのか。どうして不出来な自分が必要なのか。領主に必要とされるような価値なんて自分には。
――ダメだ。
掴まれていた手を振り解きジルは両頬を力いっぱい叩いた。ナリトの呼び掛けに交ざりパシンと音が弾ける。
自分のために、立場を顧みず協力してくれる人がいる。心配して、貴重な魔力を分けてくれた人がいる。自分に価値がないなんて。
――言い訳だ。
いつか、役立たずだと言われるんじゃないかと逃げていた。また突き放されるのが怖くて、また捨てられるのを恐れて。傷付きたくなくて。伝えてくれた想いを、信じていないだけだ。
水の大神官は、自分を必要だと言ってくれた。それなら。
「お話しいたします。でもその前に……タルブデレク領を治める主として、責務は全うするとお約束ください」
まるくなっていた背筋を伸ばし、ジルは真っ直ぐに水底のような青い瞳を見上げた。




