179 視察と魔物
視察は火の大神官の案内によって進んだ。ファジュルが経営している農園。新設中の工場に、収穫物を保管する倉庫。昼食を摂りながらにわか雨をやり過ごし、午後は島内にある診療所へ向かった。そこでナリトは救護員から診察、治療状況を聴き取っていた。
「他領の心配まで……。領主様は、大変ですね」
「ヴィリクルで発生した病は、遅れてタルブデレク領でも流行するんだ」
ファジュルの邸へと戻る馬車のなかでジルが敬服の声を零せば、ナリトは意図を説明してくれた。自領で病をまん延させないために情報を集める。そうして確立した治療方法や薬を他領にも提供しているそうだ。
領主の行動ひとつで、どれだけの民が救われているのだろう。教会領でチョコレートを頂戴した時は、大きな弟ができたなんて思ってしまったけれど。
――とても失礼だった。
ジルは放蕩気味なナリト、攻略対象である水の大神官しか知らない。講義で領主という支配階級は教わっている。しかし講義でも、そしてゲームでも公務の詳細までは語られなかった。あまねく庇護する領主の代わりが、誰にでも務まるわけがない。
「ジル嬢を荒れ地には招けないからね」
「えっ?」
脈絡なく名前を呼ばれ驚いてしまった。困惑に瞬く目で正面を見れば、深い水底の瞳がやわく煌めいた。
「聖神官の活躍なんてないくらい、穏やかに過ごして欲しいんだ」
「召致の件は、白紙になったと」
「そうだね。だから改めて申し込むよ」
回復魔法がいらない治世を目指しているのなら、自分も不要なのでは。矛盾したナリトの言葉にジルの眉根は寄った。治療でなら役に立てるけれど。
住んでいる階級が異なる人の考えはよく分からない。聖魔法でなくてもいいのなら、それこそ神官は他にもたくさんいる。もし過去の発言に責任を感じているのなら、過分な配慮だ。
それにきっと、自分は神官になれない。
「そのお気持ちだけで、姉は充分だと思います。ですから、過去のことはお忘れに」
ふっ、と視界の端を白いものが掠めていった。ただの虫にしては大きい。あの短い毛をまとった姿は。
「申し訳ございません。忘れものをしました! 先にお戻りください……!」
車輪に合わせて揺れる紗幕を払いのけ、ジルは馬車から飛び降りた。着地の勢いを殺すため地面に転がる。砂の音に交じって声が聞こえたけれど、馬車は前へと進んでいる。
セレナと護衛騎士は邸におり、別用があるファジュルとは診療所で別れた。だからここにはジルしかいない。
先ほど見た魔物は一体だった。自己回復を使えばジル一人でも討伐可能だ。馬車の後方を魔物は通り過ぎていった。這っていた場所を検分すれば、粉のような白い毛が点々と落ちている。緑葉の屋根に、枯葉の絨毯。そこに描かれた白い標を辿り駆け抜ければ。
――弱点はお腹!
ジルは落葉を巻き込み体を滑らせた。うごめく何本もの脚に長剣を引っ掻け、思い切り振り上げる。狙い通り虫の魔物はひっくり返った。のだけれど。
「あっ」
脚の節に引っ掛かり、長剣も飛んでいってしまった。遠くの方でカサリと落下する音が立つ。拾いに行く暇はない。魔物の全身を覆う粉のような白毛は斬撃を通さない。無防備な腹がみえているうちに攻撃しなくては。
ダンゴムシを平たく伸ばしたような白い魔物。その胴へジルは短剣を振り下ろした。長剣なら一振りで斬り落とすこともできたのに。短い刃では最低でも二撃は必要だ。傷口から黒い靄を噴き出し、何本もの脚がもがいている。斬り込みを入れた反対側へと移るため、ジルは助走をつけて跳躍した。
瞬間、地面に叩き落とされた。
「っ、どうして」
魔物は鞭のように全身をしならせ、ジルに体当たりを繰り出してきた。咄嗟に腕で庇ったけれど、渾身の一撃はじんじんと骨を軋ませた。この魔物は初級ランクだ。致命的ともいえる傷を負っているのに、これだけ動けるのはおかしい。
魔物は体勢を戻してしまった。ジルは自己回復で痛みを消し短剣を構える。またひっくり返さなくてはいけない。しかし手元に長剣はない。にじり寄ってくる魔物の白い胴体から黒い靄が垂れ、あともなく消えていく。
――そうだ。
魔物の全身を覆う白毛は斬撃を通さないけれど、魔法は通るのだ。休暇中に試そうと思っていたことがいま実行できる。
ジルは袖をまくり、自分の肌に剣先を走らせた。ひりついた熱を覆うように赤い筋がふくらむ。魔力はまだ解放しない。短剣を持ち直しジルは地面を蹴った。その行動に反応したのか、血の臭いにあてられたのか。
「それ、もっと早くして欲しかった!」
蛇が鎌首をもたげるように魔物が身を立てていた。ジルが短剣で裂いた腹の傷もみえている。そこへ赤い腕を押しつけ聖魔法を解放する。
切創から溢れだした淡い光は魔物の傷を覆った。期待した通りだ。しかし、次の光景にジルは目を瞠った。
聖魔法は傷だけにとどまらず、魔物全体を包み込んだ。密度を増した光は大きな白い塊となり、流砂となって宙に溶けていく。光が消えた中心には。




