177 返礼と価値
眠れないのでは、といった心配はすぐに夢へと消えた。寝台は二人が寝転んでも十分に広く、ジルは朝までぐっすりと眠ることができた。
昨夜、あれから水の大神官には何も問われていない。だから護衛騎士と同じように、ジルは触れないことにした。墓穴を掘りすすめるのは嫌だ。
――それに気付かれてない可能性も高いし。
弟に成りすましていると判っているのなら、ジルを同じ寝台に置いたりはしないだろう。この邸にはヒロインであるセレナもいるのだ。水の大神官は誤解されたくないはずだ。
領主は眠っている時でも気を抜けないのだろうか。隣にいるナリトは上掛けを乱すことなく、整った彫刻のように横たわっている。
今は夜明け前だ。起こしてしまわないようジルはそっと天蓋をくぐった。ユウリが眠る簡易寝台の傍を通り荷物を抱えたら、これまたそっと扉を開けて身をすべらせた。念のため副寝室で着替え顔を洗ったジルは、長剣を手に日課の場へと向かった。
セレナに宛がわれた客室の中庭にラシードはいた。薄暗い空のした、零れ落ちんばかりに咲いた赤い花が魔石ランプに照らされている。
「おはようございます。昨日は……ご迷惑を、お掛けいたしました」
「体調は」
「万全です!」
問題なく動けると準備運動を兼ねて剣を上下してみせれば、ぽんと頭に手を置かれた。心配してくれたのだろうか。頭上にあるのは見慣れた無表情だけれど、瞳は灯火のようにあたたかい。
――そうだ。
「バクリー騎士様、お手合わせしてください」
ラシードはいつもジルを助けてくれるのに、お礼をしていなかった。目に見える物だけが対価ではないとナリトは言っていたけれど、なにかを返せているとは思えない。貰ってばかりでは落ち着かない。
「風の大神官様に禁止されたはずだが」
「聖魔法のための、お手合わせではありませんし……ここには火や水の大神官様、使用人の方たちがいらっしゃいます。警備的にも、問題はないかと」
ルーファスとの約束は破っていないとジルは説明した。しかしラシードの反応は鈍い。護衛騎士の戦闘熱が冷めるとは思えないのだけれど。ジルが病み上がりだから遠慮しているのだろうか。理性が躊躇わせるのなら、本能に手伝って貰えばいい。
「おい」
ぱしん、と空気が裂けた。
ジルが投擲した鞘は簡単に受け止められてしまった。その死角を突いて長剣を振るえば大剣に防がれた。不意打ちにもかかわらずラシードの反応は速い。しかしこれでジルの体は回復していると伝わっただろう。一度間合いをとり、長剣を構え直す。
「勝敗は、どちらかが一本取るまで、でお願いします」
「…………」
「バクリー騎士様?」
一度は切っ先を上へ向けたのに。対峙したラシードはまた大剣を下ろしてしまった。唇は固く引き結ばれ、暗い朱色の瞳には嫌悪さえみえる。
――ああ。
やがてラシードの視線はジルから外れ、大きな体は側面をみせた。
――もう、価値がないんだ。
逃げ回っていたのはジルのほうなのに。いざ自分が避けられてみれば、つきりと胸が痛んだ。悲しむ資格なんてないのに、なんて自分勝手なのだろう。
ともに過ごした三ヶ月間で、ジルの実力などラシードは見切ってしまったのだ。指導していたのも、伸びしろを確認していたに違いない。護衛騎士は弱い者が嫌いだ。自分との手合わせなんて苦痛に他ならないだろう。これではお礼にならない。
――目に見える物だけじゃないって、これのことだ。
日課の時間だけだけれど、ラシードの視界に入らなければその分、不快感を減らせる。水の大神官が言っていた対価。自分にできる、一番の返礼。
「申し訳ございませんでした。今後は、ひとりで鍛練いたします」
護衛騎士から見えない場所に移動しよう。頭を下げていたジルは、赤い花びらの落ちた芝生から鞘を拾い上げ、抜き身の剣を収めた。ぼんやりと明けてきた空が不意に暗くなり。
「必要ない」
ぽつりと一滴、重低音が降ってきた。鍛えても強くなれない。そうはっきりと言われてしまった。力の差を埋めるのは難しいと分かっている。それでも、剣を振っていないと不安なのだ。義父から教えて貰った、鍛練を怠らなかったという自信まで失いたくない。
息を吸い込み、長く吐き出す。強張っていた手を柄頭から離し、体に揃えて振り仰ぐ。
「もう邪魔は」
弱いばかりか沢山の迷惑を掛けたジルは邪魔者で、ラシードは怒っているのだと思っていた。実際に無表情なんて見る影もないしかめっ面で睨まれている。けれどそれは苛立ちというよりも留守番を嫌がる子供、エディのようで。
放っておけず腕を伸ばした。
二年前は、爪先立ちになってようやく首に届いたジルの手。いまその手は、ラシードの顔に触れている。足手まといがいなくなるというのに、強い護衛騎士はなにを恐れているのだろう。腕を真っ直ぐに伸ばして、どうしたのかと頬を撫でる。すると、なにかを噛み締めるように口の端まで歪んでしまった。
当然の反応だ。嫌いな人間が触れているのだから。払いのけられる前にジルは伸ばしてしまった手を離す。
「――っ」
けれど腕は下ろせなかった。罠にかかった獣のようにジルは手首を掴まれていた。赤く耀う重圧に息を詰める。このまま縊られてもおかしくない。そう考えたとき、腕はあっけなくラシードから解放された。
「戻っておいで、エディ君」




