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傾界の聖女  作者: たま露
【火の領地 編】
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176 要求と代弁

 寝台が沈み、イヤリングをつけた耳へとナリトの手が伸びてきた。とっさにジルは身をひき手で覆い隠す。魔法石は大切な戦力だ。魔物との戦闘、魔素信仰者と接触する場合においても備えておきたかった。それに、この魔法石には。


「し、失礼いたしました」


 ジルが拒否の姿勢をみせても、ナリトの様子は変わらなかった。寝台に腰掛け静かに微笑んでいる。その顔が不意に近づき、長い黒髪に魔石ランプの明かりが流れた。と思ったらジルの両耳でイヤリングが揺れていた。あっという間の出来事だった。


「高価だから引け目を感じているのかな」

「え?」

「例えばその魔法石がただの石だったら、君は粗末に扱う?」

「いいえ」


 たとえ魔法が籠められていなくても、ジルの身を案じてくれたクレイグの想いに貴賤はない。ルーファスが花の祭りで贈ってくれた花冠も、決して高価なものではなかった。けれどジルのために編んでくれたものだから、香りが薄らいでも捨てたりせず教会領に持って帰った。


「その言葉だけで贈る側は嬉しいものだよ」

「なにもお返しできていないのに、ですか?」

「そのイヤリングを渡されたとき、なにかを要求された?」

「……いいえ」


 渡せるものがないと言ったから、クレイグはジルに要求したのだ。イヤリングの対価として、初めから膝枕を強請られた訳じゃない。それでも、どうして自分なのか理由が分からず視線は落ちた。薄いなめらかな上掛けにはいく筋もの皺が寄っていた。そこへ、低く玲瓏な声がするりと流れる。


「難しく考える必要はない。エディ君からの見返りを期待して、ジル嬢は行動しているのかな?」

「いいえ」

「それと同じだ。危険からは遠ざけたいし、安らかでいてほしい」

「……!」


 自分は先ほどなにを訊かれただろうか。名前を呼ばれなかっただろうか。しかしそれを精査する余裕がない。


 ジルの顔は、大きな両手に包まれていた。頬に触れた手のひらは自分の体温よりも少し低い。互いの額は重なるか重ならないか。そんな距離で固定されてしまっては視線の逃げ場がない。深い水底の瞳は砂糖水のようにとろめいており、形の良い唇から紡がれた言葉も。


「君を愛しているから、大切にしたいんだ」


 あまやかな声に浸され、なにも反応できなかった。


 湯でのぼせた体は、聖魔法で治したはずなのに。注がれるあたたかな眼差しに息継ぎを忘れたなら、熱に浮かされ溺れてしまいそうだ。長い指先が、イヤリングに触れる。


「目に見える物だけが対価じゃないんだよ」


 ジルは乱れた拍動を冷やすため、体に空気を送り込む。ナリトはイヤリングの話をしていた。だから今の言葉は贈り主の気持ちを代弁しただけで。いや、それだと自分はクレイグに。ではやはりナリトの。でも水の大神官の好きなものはヒロインで。土の大神官の好きなものは。


「あああああの……! 水の大神官様はどちらでお休みになるのでしょうか!」


 ぐるぐると対流する思考回路は、熱の逃げ場を求めて別方向に噴き出した。エディの真似も忘れて声を張り上げる。吸い込まれそうな青い瞳から逃れるため、ジルはぎゅっと目を閉じた。すると至近距離にあった熱が離れて、頬からやや骨ばった手の感触もなくなった。


「私は副寝室を使わせて貰うよ」


 瞼を開ければ涼やかに笑んだナリトがいた。ジルは蜃気楼でも見ていたのだろうか。ゆるりと垂れた紗幕をよけ、寝台から立ち上がったナリトはジルの髪を撫でた。


「話し過ぎてしまったね。ゆっくりおやすみ」

「お待ちくださいっ」


 離れていく衣の裾をジルは慌てて掴んだ。無礼だとは分かっているけれど、こうしないと立ち止まってくれないと思ったのだ。寝台の上から追いすがるように見上げれば、ナリトは目を丸くしていた。部屋から出ていかないように、ジルはそのまま口を開く。


「主人を差し置いて、主寝室を使うことはできません。体調も良くなりました。僕が、副寝室に移動します」

「ということだがユウリ、どうしようか」


 ジルの手は振り払われなかった。そのままナリトは身を捻り、終始黙って控えていた側付きに声を掛けた。楽しそうなのはどうしてだろうか。それに反して問われたユウリは、今にもため息を吐きだしそうだ。


「簡易寝台を入れます」

「用意が早くて助かるよ」


 タルブデレク大公の側付きは言うが早いかすぐに扉をくぐって行った。居間の方からガタゴトと音が聞こえる。


「えっと……これ、は?」

「ユウリが一人では寂しいと言うんだ。だから三人でここを使おう」


 これなら問題ないだろう、と衣を掴んでいたジルの手に、ナリトの手が重なった。その背後ではユウリが運び込んだ簡易寝台を黙々と整えていた。

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