175 主寝室と副寝室
ジルは客室へと帰ってきた。仕える主人に抱えられたまま。ナリトの歩みに合わせてユウリが扉を開けていく。この間取りで迷子になる、なんてことはないはずだ。
「水の大神官様の、お手を煩わせてしまい……申し訳ございませんでした。副寝室に戻ります」
静かに下ろされた天蓋つきの寝台でジルは一礼した。従者である自分が、副寝室まで運んで貰えるなんて考えは図々しいにも程があった。被ったままになっていた寝衣に腕を通し、ジルはゆったりと垂れた紗幕に手を掛けた。直後、その手を取られた。大きな寝台の端が沈む。
「エディ君の寝室はここだよ」
「ここは、主寝室では……」
「私たちが帰った後も、君はこの部屋を使うんだ」
寝台に座ったナリトは水底のような双眸をゆるりと細め、ジルの手をぽんぽんと叩いている。その仕草はまるで、仕様のない子供に言い聞かせているようだった。
部屋を移るのは三日間だけではないらしい。これについてもジルは聞き漏らしていたようだ。ではナリトはどこで眠るのだろうか。その疑問を口にしようとしたとき、やや骨ばった大きな手がジルの頭を撫でた。
「水を取ってくるよ。ユウリに話があるから少し遅くなってしまうが構わないかな?」
「水でしたら、僕が運びます。居間でよろしいでしょうか?」
「君にはまだ安静が必要だといっただろう。着替えたらここで休んでいなさい」
ナリトの言葉にジルは迷った。領主に水を運ばせてよいものか。しかし着替えたい気持ちもある。いつの間にか湯着は乾いていたけれど、寝衣のしたに着たままだ。そう、湯着しかまとっていない姿で、ジルは倒れ。
――気付かれた? バレた!?
あたたまり上っていた血の気が一瞬で引いた。薄暗い浴場とは異なり更衣室は明るい。ナリトとラシード、ついでにユウリにも入れ替わりが露見したかもしれない。自分はエディだ男性だと主張するため、ここは目の前で着替えてみせるべきか。淑女教育を受けた神官なら、異性の前で堂々と着替え始めたりしないだろう。
寝衣は丈が長い。被ってしまえば足もほとんど隠れてしまうから、露出を気にすることなくロングパンツも履ける。ナリトに背を向けていれば着替えられる。背中を晒すことに目をつむれば。
――大丈夫。水の大神官様の手も、気持ち悪くなかった。……よし!
「いない」
気合を入れて寝台から飛び出したのに、自分一人しかいなかった。
ナリトはいつ主寝室から出て行ったのだろうか。ジルは扉の開閉音にさえ気が付かなかった。こうなってしまえばすることは一つだ。
――帰ってくる前に着替えよう。
備え付けのテーブルにジルの荷物は置かれていた。自己回復をして体調を万全にし、必要なものを手早く身に着けていく。義父から貰った魔法石のネックレスを首にかけ、ファジュルから貰った紅いカメオは足に飾る。本当は腕につける物なのだけれど、着け慣れないジルに二重巻きは難易度が高かった。クレイグから渡されたイヤリングは。
――いつもは枕元だけれど。
自分は本当に主寝室を使うのだろうか。やはり副寝室へ移動するとなったとき、イヤリングを置き忘れてしまうかもしれない。耳にはなにも付けていないのに、やわく挟まれたような感覚がした。金色の眉根を寄せた不機嫌顔が目に浮かぶ。
「鏡はどこかな」
不要な記憶を遮断するためジルは声を出した。明るい室内を見回せば、目当ての物は化粧台に置かれていた。椅子に座り魔法石のイヤリングを片耳につける。毎朝くり返しているから今では手慣れたものだ。残りのイヤリングを付けようとしたとき、扉が叩かれた。ジルは椅子から立ち上がり水の大神官を出迎える。
「どうぞ、お入りください」
「出迎えなんてしなくていい。体調はどうかな」
入室したナリトは手に何も持っていなかった。続いて現れたユウリが水差しとグラスの載ったトレーを持っている。タルブデレク大公の側付きが、主人に運ばせるわけがなかった。従者とは本来こうあるべきなのだ。主人の手を煩わせている自分はまだまだ未熟だ。
ジルはナリトに誘導されるまま寝台へと戻された。よれてしまったシーツの上で考える。ジル一人で泊まるのなら納得もできるけれど、水の大神官が滞在しているのに主寝室を占領するのはやはりおかしい。ナリトはきっと自分の体調を気遣ってくれたのだ。ならば元気であることを示せばいいと、ジルは敢えて微笑んでみせる。
「水の大神官様のお陰で、すっかり良くなりました。ですから、僕は副寝室で」
「これは魔法石?」
「は、はい」
急にナリトの手が伸びてきた。イヤリングを付けるためジルは髪を耳に掛けていたから、ナリトにも見えたのだろう。耳朶から下がった橙と茶が揺らめく魔法石に手を添え、じっと動かない。しばらくして落ちていた視線がジルに向いた。
「贈り物かな?」
「分不相応、ですよね」
顔が俯いた。ジルの給金で購入できる代物ではない。盗品と疑われた訳ではないだろうけれど、従者の身には不釣り合いだと思われたのだろう。ナリトの手から離れたイヤリングが重さを増す。身に着けていないほうの魔法石も見たいと言われ、ジルは差し出した。
「不要なら私が預かっておこうか」
やさしい声音だった。橙色と茶色。クレイグの瞳と同じ色を宿した魔法石のイヤリングを手に、ナリトはなめらかな笑みを浮かべていた。




