174 従者と従卒
視点:ナリト
「エディ!」
「エディ君!!」
急くままに押し退けた扉の先で、少女は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。ふらりと傾いだ肢体はほの白い湯ではなく、褐色の腕に受け止められている。硬い浴槽に打ちつけられず安堵した半面、騎士が少女の肌に触れているのは面白くない。
「助けてくれたことに礼を言う。私の従者だ。こちらで引き取ろう」
ナリトは室内着のまま浴場を進み、湯のなかへと足を踏み入れた。ガットア領の気候に合わせて誂えた軽い衣が、ぬるい湯を吸い上げる。ラシードに抱えられた少女はぐったりと浅い呼吸を繰り返していた。
「恐らく湯あたりです。こちらで対処します」
「これ以上その子に触れるなと私は言っているのだが?」
なにか思うところがあるのか。冷えた声音でナリトが引き渡しを命じれば、褐色の指先は拒むように少女を掴んだ。無表情だが目は口ほどに物を言う。ラシードからは警戒心が滲んでいた。
聖女の儀式はすでに三ヶ月過ぎている。騎士団の演習場で会した時は親しそうには見えなかったが、この騎士は少女からの信頼を勝ち得ているのだ。こんこんと湧きでる感情がナリトの心中を波立たせる。
しかし、何よりも優先すべきは少女だ。
「更衣室までは許可する。そこの長椅子まで運びなさい」
塗り固めた為政者の顔で指示を出し、己も浴槽を離れる。足に絡みつく濡れた裾は、移動しながら水魔法で引き剥がした。その場で霧散させず、宙に浮く水を固めていくつかの氷を生成する。更衣室に備えられたタオルで氷を包み、長椅子に横たわった少女の首、脇の下へと当てた。
浴場へと送り出した時刻から逆算すれば、体の水分は不足しているはずだ。魔法で生み出した水は飲料に向かない。室内にある水差しをラシードに示し、ナリトは魔法で少女の湯着から水分を取り除いた。
濡れて張りついていた布が空気を食む。それでも少女の華奢な手足は露出したままだ。何人の目にも触れさせたくはないが、体を冷やさなければならない。
「水です」
「そこに置いたら下がりなさい」
「エディは」
「従卒でもなければ、君の部下でもない。火魔法に今できる事はない」
「……畏まりました」
低い声音は平坦で感情を窺わせない。しかし一拍の間に込められたものは、ナリトの心中に湧いた想いと同類だろう。大人しく引き下がるラシードの気配を背に感じつつ、ナリトは力ない少女の手をとった。
「エディ君、水は飲めるかな?」
「……ん」
呼び掛ければ薄い瞼が微かに動いた。もう一度声をかける。本当は少女の名を呼びたいところだが、正体を隠しているようなのでナリトは合わせた。
閉じていた瞼がゆっくりと上がる。現れた紫の瞳は遠くを眺めるように彷徨っていた。長椅子の前で膝をついていたナリトは少女の視線を捉えるため、熱を上らせた頬に手を添え覗き込んだ。
「喉が渇いただろう。少し水を飲もう」
「は、……え、な……」
狙い通り焦点は定まった。今は混乱に揺れ動いているが問題ないだろう。背を支えて少女の上体を起こす。ナリトは空いたほうの手でグラスを運び、薄く開いた唇へと傾けた。すると少女は一息に水を飲み干してしまった。足りないだろうと思い水差しから二杯目を注ぐと、次は自分でグラスを持ち飲み始めた。
「ありがとう、ございました。……あの、どうしてここに」
「戻りが遅いから迎えに来たんだ。ラシード卿、外にいるユウリを呼んでくれ」
下がれと命じたはずだが、着替えた後もラシードはずっと更衣室の隅に控えていた。騎士も少女が心配で堪らないらしい。ナリトの背にはずっと、監視に似た視線が刺さっていた。
「お呼びですか」
「エディ君の荷物をここに」
「け、結構です! 動けますから、自分で」
「ダメだよ。君はまだ安静が必要なんだ」
そんなに声を張ってはまた眩暈を起こしてしまう、とナリトは細い首に冷たいタオルを当て直す。そうしている間にもユウリは動いており、すぐに指示した物を運んできた。そのまま冷やしているようタオルは少女に預け、部屋着である長衣を手に取る。
「今の恰好では外に出られないからね」
「わっ」
袖に腕は通さず、頭からすっぽりと体に被せた。ふくらはぎより下は出てしまうが仕方ない。長衣の裾を整えつつナリトは少女を抱き上げた。
「部屋に戻る。ラシード卿も休みなさい」
「あっ、バクリー騎士様も、ありがとうございました……!」
「っと」
身を捩った少女が両腕から零れ落ちないよう己の体に引き寄せた。後方に立つラシードへ声を届けたいと思っての行動だろう。直後、危ない軽率だったと眉尻を下げた少女に見上げられた。
「構わないよ。君はいま私の腕のなかにいるのだから」
抱えたぬくもりに愛しさは尽きない。それに比例して疑問と心配が増していく。絹のような銀髪が短くなっても、少年の姿をしていても、見間違えたりなどしない。弟に成りすまし従者をしているのは何故なのか。
――このまま領地へ連れ帰ってしまおうか。
ファジュルが商談で提示した内容はヴィリクル限定だ。ここにいる間は、少女と騎士の寝室を分けると暗に告げていた。つまりガットア領本土では未定ということだ。客室へと続く廊下を進みながら、ナリトは取引材料をひとつ浮かべる。
――ユウリから小言を食らうかな。




