172 部屋と浴槽
晩餐を終えたジルは、ナリトに宛がわれた客室の前で足を止めた。扉をあけるユウリの動きは洗練されており、ジルの出る幕などない。ナリトが入室するのを見守り頭を下げた。
「なにをしてるのかな?」
「水の大神官様の、お見送りを」
「私を見送ったあと、エディ君はどこへ行くのかな?」
「お部屋に、下がらせていただきま、す?」
客室に入っていたナリトが廊下に出てきた。と思ったらなぜか背に手を当てられている。どうしたのかと隣を見上げれば。
「君の部屋はここだよ」
「え?」
「私の従者なのだから」
青い瞳は楽しそうに細められていた。三日間ナリトに仕えるのは承知している。しかしジルは部屋まで移るとは思っていなかったのだ。だからここで別れ、翌朝日課を済ませたら廊下でナリトを待っていようと考えていた。
「荷物を運ばせる。商談の時にラバン会頭が言っていただろう」
その言葉に合わせて部屋のなかからユウリが姿を現した。両手には見慣れた長剣が乗っている。ファジュルはそんなことを言っていただろうか。正直、記憶は曖昧だけれどここに自分の荷物がある、それが全てだ。
――このおまけは嬉しい。
ジルは勘違いしていたことを詫び、ナリトに背を押されるまま客室の扉をくぐった。
室内はセレナの客室と同じ造りをしていた。ひとつ異なるのは、窓から観える景色だ。あちらは中庭に面していたけれど、ここからは海が観えた。月明りはきらきらと夜の波と戯れている。
セレナはひとり主寝室で眠っていたからそこに変化はない。先ほどの調子なら、今後の食事も同席となるだろう。ひとつ気になるのは。
「セレナ嬢が心配?」
「いえ。バクリー騎士様が、ご一緒ですから」
「随分と信頼しているんだね」
「何度も、助けていただきました」
ラシードと同じ寝室は避けたいけれど、嫌っているわけではない。ジルが無言で窓の外を眺めていたからナリトは気遣ってくれたのだろう。心配させないよう微笑んだ瞬間、青い目がすっと細くなった。
「リングーシー領での話を聴きたいな。長くなりそうだから、先に湯浴みを済ませてしまおう」
「かしこまりました」
一礼したジルが頭を上げると、ナリトは片眉を上げていた。浴場へ移動しないのだろうか。首を捻るジルの前にユウリが身をすべらせてきた。
「ハワード君はここで待機して、訪問者があれば用件を伺ってください」
「はい。お戻りを、お待ちしています」
領主の側付きは、わざわざ身を屈めてジルに目線を合わせてきた。新人に教育を施すような、一言一句言い聞かせる声音に背筋が伸びる。
――私だと頼りないか。
護衛騎士がしていたように、ジルは浴場へと続く扉の前で有事に備えるつもりだった。しかし留守を預かるのも大切な役目だ。ジルは廊下に出て主従の背を見送った。
◇
「おかえりなさいませ」
「ああ、ただいま」
ほどなくしてナリトとユウリは戻ってきた。湯上りで気持ちがほぐれているのだろう。なめらかな微笑みから、やわらかさが溶けだしている。
来客は無かった旨を報告すれば、労いとともにジルも湯を浴びるよう送り出された。その際、浴場の外で見張っていようかなどと、ナリトからとんでもない言葉をかけられたけれど、恐れ多いとジルは丁重に辞退していた。
――誰も、いない?
更衣室で湯着に着替え広い浴場を見渡す。扉の傍で待機していた邸の使用人にあらかじめ入浴者の有無を確認していたから、ただの再確認なのだけれど。
同時に三十人は利用できそうな大きい浴槽。ぬるめの湯はこんこんと溢れ出ており水嵩も十分。今日ここに、セレナはいない。
――今なら確認できる!
ほのかに白く色付いた湯に身を浸したジルは、浴槽のふちに両手をついた。うつ伏せになり足を伸ばす。体を支えていたつま先を、そろりと離せば。
「あ」
膝から湯のなかに着地した。浮かない。今度は両腕も伸ばして試してみる。
「ぅ」
ぼちゃんと顔は水面を叩いた。やはり体は浮かばなかった。うつ伏せがダメなら仰向けだ。少し怖いけれど、ジルはゆっくりと体を後ろに倒す。後頭部があたたかくなり。
「っっっ」
鼻の奥がツーンとした。湯が入り込んだ痛みをすぐに聖魔法で消す。それからも何度か挑戦してみたけれど、結果は芳しくなかった。ジルは浴槽のふちに背を預け、ずるずると身を沈める。
――私、泳げないんだ……。
泳ぐ以前の問題だった。水に体が浮かないのだ。ここヴィリクルは離島だ。火の聖堂へ戻るには来たときと同じ経路、海を渡る必要がある。
帰りの帆船で大人しくしていれば海に落ちたりはしないだろう。しかし、なにが起こるか分からない以上、泳げるのに越したことはない。それに。
――タルブデレク領は水路があるんだよね。
水の大神官という名が示す通り、聖堂も神殿も、さらには街中も水が豊富なのだ。タルブデレク領を訪れるのは秋だ。可能ならガットア領滞在中に克服しておきたい。
――セレナ神官様は泳げるのかな。
浴槽で泳ぐのは、はしたないけれど教えを乞うてみようか。ぽかぽかとする頭でジルがそんなことを考えていると、更衣室の方から音が聞こえてきた。




