170 取引と報酬
ぴたりと片腕にくっついたセレナへ、ジルは軽く頭を下げた。
「僕のために怒ってくださり、ありがとうございます」
「嫌だったら断っていいからね」
リンゴのように頬をふくらませているセレナ。余裕の笑みを崩さないファジュル。微笑んでいるけれど身動ぎもしないナリト。三者の視線がジルに集まっている。
その内の一人、紅玉の瞳へジルは視線を据えた。
「ファジュル大神官様。先ほど、僕のお陰……と仰っていましたよね?」
「ああ、言ったね」
「三日間、水の大神官様に、誠意お仕えいたします。その報酬に……休暇をいただきたく存じます」
「許可しよう。倍の六日間、いつでも好きな時に休みな。休暇中の遊興費も負担するよ」
自分のお陰で儲けられたなら、その働きに応じた報酬が欲しいとジルは要求した。悠然と構えたファジュルの声音には、面白がっているような響きがあった。火の大神官から承諾は得た。次は。
「セレナ神官様にも、ご許可を願いたく。……ダメ、でしょうか?」
もう一人の主であるセレナへ、ジルは眉尻を垂らし首を傾げた。すぐ傍にある桃色の瞳にじっと見詰められ、やがてジルの腕は軽くなった。
「分かりました」
「ありがとうございます」
渋々といった声音で口はへの字に曲がっている。それでもセレナはジルの希望を受け入れてくれた。嬉しくて頬が緩む。片手にサーバーを持っていて良かった。主をなぐさめるために、弟へするように頭を撫でるところだった。
「私からもセレナ嬢に礼を。御生家のリンゴ農園に遣いの者を送るよ」
硬かった目元はやわらぎ、低く玲瓏な声はなめらかに言葉を紡いだ。それと同時に控えていたナリトの側付きが近づいてくる。商談中は言わずもがな。ジルが話し始めてもまったく動きがなかったため、ユウリの存在を忘れかけており少し驚いた。
「今年は結構です。物価が戻ったら、たくさん買ってください」
タルブデレクの領主へセレナは首を振っている。ソルトゥリス教会の支援を受けているため実感しづらいけれど、魔物が減っていない以上、食料事情は改善していないのだ。だから実家のリンゴはリングーシー領内で消費したほうがいい。セレナはそう付け加えた。
「アタシならリンゴを元手に増やすけどね」
「セレナ嬢の希望通りにしよう」
ファジュルは交易による糧の増量を示唆した。それでもセレナは唇を結んだままだったため、ナリトはユウリを下がらせた。
ここから先は取引条項の確認など込み入った話になる。だからジルとセレナは退出してよいと火の大神官から指示が出た。ジルがソファに座った二人へ一礼すると。
「契約が済んだら迎えに行くよ」
「滅相もないです。応接室の前で、お待ちしています」
顔を上げた先で新しい主、水の大神官が微笑んでいた。風の大神官が言ったなら素直に頷いていたかもしれない。ジルひとりで廊下に立っていたら、きっとルーファスは心配するだろうから。
しかし同じ大神官であってもナリトは領主だ。枢機卿、総大司教に近い発言権を有するタルブデレク大公を呼びつける庶民がどこにいるというのか。恐縮したジルは再び頭を下げた。
「では最短で終わらせよう」
「抜かった。契約書に有利な条項を交ぜとくんだったよ」
「私には優秀な補佐がいるのを忘れたのかな」
ファジュルの声色には欠片も悔しさが含まれていない。軽口が途切れた隙を見計らいジルとセレナ、その護衛騎士は応接室を辞去した。
◇
そろそろ夕刻を迎えるころだけれど、廊下はまだ明るい。
「気が付かなくて、ごめんなさい」
「えっと……なにか、ありましたか?」
大きな扉の傍でジルはナリトを待っていた。その隣には、しょんぼりと肩を落としたセレナ、その奥には直立不動のラシードがいる。
「ずっと一緒だったから。エディ君も、ゆっくりお休みしたいよね」
「あああちがいます! 一緒で疲れたとかではなく……!」
勘違いさせてしまっていた。慌ててジルが否定すれば、眉尻を下げたセレナは問うように首を傾げた。
休暇が欲しいと言ったのは、魔素信仰者に接触する機会が欲しかったからだ。セレナをそんな場所には連れて行けない。それに護衛対象が動けばラシードも付いてくる。そうなれば話を聴く前に魔素信仰者は、異端審問官に捕縛されてしまうだろう。だからジルは一人で行動できる日が欲しかったのだ。
「あの、姉に……お土産が欲しいと、頼まれていて。ケンカしたお詫びに、と」
エディにそんなことは言われていない。でもここで計画を話すことはできない。それらしい理由を、と浮かんだままにジルは伝えた。本当だと念を押すように、セレナへ視線を合わせたまま微笑んでみせる。
「それじゃあ領主様が出てくるまで、一緒に待ってても大丈夫?」
「もちろんです」
不安の滲んだ水蜜の瞳へ、ジルは何度も頷いた。
ジルが一人で行動したい理由はもう一つあった。教会領に戻ったとき、北方騎士棟の執務室でデリックが話したこと。魔王の眷属たる魔物。闇に堕ちた生き物に聖魔法は効果があるのか、試してみたかったのだ。




