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傾界の聖女  作者: たま露
【火の領地 編】
170/318

169 カカオとキャンドル

 ジルはサーバーを手に取りテーブルへと近づいた。空になったカップへとコーヒーを注ぐ。


「エディ、部屋で不自由はしてないかい?」

「えっ、あ、はい」


 ファジュルの唐突な声掛けにジルの両肩が跳ねた。商談の最中に尋ねられた理由は分からないけれど無視はできない。ジルはサーバーの底面に手を添え姿勢を正す。


「使用人の皆様にも、良くしていただいています」

「そこの騎士と同室でむさ苦しいんじゃないかと思ったけど、杞憂なら良かったよ」


 ファジュルは何も言ってこないけれど、確実に姉弟の入れ替わりに気が付いている。その上でジルをエディ、従者として扱ってくれているのだ。護衛騎士に探られていることを思えば正直、部屋は分けて欲しい。けれどそれは我儘だ。だからジルは、主人の配慮に感謝だけを示した。


 するとファジュルの向かい側から諦めにも似た、さざ波のような笑い声が立った。


「私はカカオ豆の仕入れに来たのだと思っていたが」

「稼げるときには資財を惜しまない。これがアタシの商売だ」


 燦々と輝く紅玉の瞳に、静かに揺蕩う水底の瞳。応接室に訪れた静寂のなか、ナリトは残っていたコーヒーを飲み干した。空になったカップがジルへと差し出される。


「私も頂いていいかな」

「かしこまりました」


 サーバーを傾けている間、その場から一歩引いた後も。深い青色の瞳はずっとジルに注がれており、少々居心地が悪かった。その視線は今ファジュルへと戻り、苦いコーヒーを含んだ唇はふたたび弧を描いた。


「これは払うほうが多くなりそうだ」

「港の情報は無料(ただ)でいいよ。代わりにキャンドルを月に百。そうだね、一日につき一年」

「香料の変更は?」

「最小単位は三百になるよ」

「構わない。三年分契約しよう」


 ファジュルは再びソファから立ち上がった。紅い衣装に包まれた妖艶な肢体は芝居がかった動きで男性貴族の礼をとる。


「我が従者エディに、格別なるご高配を賜り感謝申し上げます」

「へ?」


 訳が分からなかった。なぜここで今、自分の名前が出てきたのだろうか。ジルがしたことと言えば給仕くらいだ。疑問符でいっぱいになった頭の中に、ファジュルは新たな不可解を突っ込んできた。


「エディ、今日から三日間タルブデレク大公閣下に付きな」

「え??」

「荷物は使用人に運ばせとくよ。ああ、三日後もそのまま同じ客室を使いな。一人じゃ広過ぎるだろうけどね」


 ジルの口からは言葉にならない声しか出てこない。けれど仕方がないだろう。理解が及ばないのだから。ファジュルは上機嫌に指示を出すだけで説明する素振りすらない。ではナリトはと視線を移せば。


「滞在中、宜しくね」


 こちらにも上機嫌な声を掛けられた。取引が成立してよほど嬉しかったのだろうか。青い瞳は砂糖水のように艶めいている。


 滞りなく話しを進めた二人の大神官。もしや自分は何か聞き漏らしていたのだろうか。そう疑いジルは記憶を辿る。その視界のなかで、じっと黙り込んでいたセレナが顔を上げた。


「一番最初に購入したのは、カカオ豆だったんですね」

「ああ。邸に来るとき黄金の実がなってただろう? あれからカカオ豆が採れるんだよ」

「カカオ豆はチョコレートの材料でね、私は投資を兼ねて毎年買っているんだ」


 ファジュルの言葉を受け継ぎ、ナリトが用途を説明している。大神官としてだけでなく、交易相手としての付き合いも長いのだろう。先ほどの商談といい流れるような連携だ。


「コーヒー豆は、豆そのものよりも港のほうが重要、なのかな」


 首を捻りながら零すセレナの言葉に大神官達は口角を上げるだけで、今度は何も返さない。ガットア領の港は、少なくともゲームの本筋には登場していない。聖女の儀式には関係のないことなのだろう。


「でもその港の情報よりも、ファジュル様はキャンドルを売り込みたかった?」

「エディのお陰でいい取引になったよ」


 上機嫌なファジュルに反して、セレナは頬に指を当て再び口を閉じた。考え込むように下へと落ちた桃色の瞳、段々と深くなる眉間の皺。


「エディ君は物じゃありません!」


 叱声とともにセレナは立ち上がった。ソファに座った大神官二人を交互に見下ろし、ジルの隣に移動してくる。


「わっ」

「それに、ファジュル様だけに仕えているわけじゃありません。私の従者です!」


 耳元でセレナの声が高らかに響いた。腕に抱きつかれたジルは、サーバー内のコーヒーを零さないようにするので精一杯だ。


「なら、大公閣下にリンゴも買って貰おうじゃないか」

「私も破談にはしたくない。応じよう」

「そういう問題じゃありませんっ」


 三人の会話から、ジルもやっと状況を理解した。キャンドルを売り込むために、期間限定とはいえ自分も一緒に売られたのだ。知らぬ間に人身売買が行われていた。けれど怒りよりも驚きが勝り、同時に閃く。


 ――ちょうどいい!

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