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傾界の聖女  作者: たま露
【火の領地 編】
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166 胡乱と給仕

 ――おかしい。


 たしかに居間のソファで寝たはずだ。もしや自分は眠りながら歩いたのだろうか。しかし上掛けは昨夜のまま、ジルにしっかりと巻きついている。


 起き上がり胡乱な目を横にやれば、隣の寝台にいたラシードが動き出した。ジルが目覚めていることなど気が付いているだろうに一度もこちらを見ない。無言で身支度を整えたラシードは、大剣を手に副寝室を出て行った。


 エディに寝言を指摘されたことはあっても、移動していたなんて言われたことは一度もない。セレナがジルを抱え上げられるとも思えない。


 ――どうしよう。


 十中八九、ラシードが犯人だ。どうして運んだのか尋ねてよいものだろうか。仮に入れ替わりの証拠を掴まれていた場合、理由は不明だけれどまだ指摘はされていない。そこへジルが問えば寝た子を起こすことになる。


 ――素振りだ。素振りをしよう!


 眉間に刻まれていた皺をジルは無理やり引き伸ばした。寝台から下りて服を着替える。長剣を持ったら明るい簡易台所で顔を洗い、陽が昇りきっていない中庭へ向かった。


 帆船での事といい、護衛騎士の思考はさっぱり分からない。証拠の確認方法など考えたくもない。何かあれば日課中にでも言ってくるだろう。それまでジルからは触れないと決めた。


 ◇


 本日の商談は十五時からということで、昼食を終えたジルはセレナと一緒に使用人から地理を教わっていた。


 聖女一行が滞在している南の島、ヴィリクルは緑が多い。けれどこれは例外で、北から西南部には砂漠が広がっており、領地性質としては土色のほうが多いのだ。


 乾季と雨季に分かれたガットア領では農業が安定しないため、綿織物や鉱物の採掘が主な産業となっている。ファジュルは固有植物や海産物を利用した商品の開発も行っているそうで。


「あの石鹸もですか?!」

「詳しい製法はお話しできませんが、ソラトンの一部を加えることによって香りの持続性を高め、ジャスミンソープはラバン商会の新たな収益となりました」


 ソラトンは帆船で遭遇した白い海洋生物のことだ。浴槽に浮かんでいたキャンドルも商品だそうで、宣伝と生産体制の維持を図っているのだと使用人は話した。


 食料は各領地との交易によって調達されており、陸路だけでなく海路も整えられている。多方面から食材が集まるため、多様な料理が生まれたそうだ。


「ぁ」

「うわっ」


 セレナの口から小さな声が落ちた直後、ザーという騒音がジルの鼓膜を叩いた。居間の明かりは魔石ランプによって保たれている状態で、中庭は一面灰色になっている。


「ね、すごいでしょ」

「はい」


 ジルに話した通り、バケツをひっくり返したような降雨で満足したのだろう。隣に座ったセレナの声は得意そうだ。掃き出し窓は開放されたままで、跳ねた雨水が床を濡らしている。


 ――そういえばゲームでもあった。


 儀式とは関係ない、日常の一幕だったからジルは忘れていた。火の大神官、あるいは護衛騎士と出掛けたとき雨に降られていた。ヒロインの行動によって雨宿りできるかどうかが変わるのだけれど、いづれも雨はすぐに止み空には虹が架かっていた。


「商談の開始時間が変わるかもしれませんね」

「雨はもう止みましたよ?」


 セレナの言葉通り重い雲は切れ切れになり、すき間からは青空が覗きはじめている。


「今は十四時五十分です。いつもなら降り終わっている時刻なのですが」


 ジルとセレナの対面に座っていた使用人は時計を確認し、客室の出入口へと顔を向けた。まるで見計らったようにコンコンと扉が音を立てる。セレナが許可を出せば、別の使用人が顔を覗かせた。


「失礼いたします。従者様に、こちらの衣装を浴場へ届けて欲しいとラバン会頭より指示が出ております」

「浴場、ですか? かしこまりました」


 火の大神官は表向きの主人だ。従者であるジルは、扉口で使用人から衣装を受け取った。どうやら商談相手は敷地内に到着していたようで、馬車から降りたと同時に雨に降られたらしい。


 ――こういう事があるから、浴場はいつでも使えるようにしてるのかな。


 ジルは無駄遣いではないかと思っていた。けれど育ってきた環境が異なるのだから、感性が違うのは当たり前だ。ファジュルのもてなしに感心しつつ、セレナに退室の挨拶を告げたジルは浴場へと足を進めた。


 ――飲み物より先に、服を給仕するとは思わなかった。


「主人の命により、替えのお召物をお持ちいたしました」


 浴場へと続く扉を叩けば、すぐに応えがあった。しかしジルの来訪を訝しがっているような、どこかで聞いたことがあるような声で。

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