165 にわか雨と黙認
「バシャーって! バケツをひっくり返したみたいだったんだよ」
「気が付きませんでした」
頭上では赤い花が屋根を作り、陽射しを遮っている。晴れやかな空の下、芝生はしっとりと蒸気し、あたりに緑を漂わせていた。
調理場でコーヒーを淹れて数十回。ようやく使用人から合格を貰ったジルは、客室の中庭を訪れていた。セレナは蜂蜜を入れて。ラシードはそのまま。ジルは朝食で飲んだもの同じように練乳をたっぷりと入れた。
「にわか雨がくるって、ラシード様は知ってたんですね」
「この時季ガットア領では日に一度、昼頃に雨が降ります。あの時はまだ降っていなかった為、十四時以降なら雨は上がっているだろうと判断しました」
使用人から地理を習っていたところ、急に部屋が暗くなって驚いたとセレナは話した。何事かと驚いたのも束の間、叩きつけるような雨音に思わず悲鳴を上げてしまったと恥ずかしそうに微笑んだ。
――昨日は海のうえだったから降らなかったのかな。
にわか雨が降ったころ、ジルは調理場でコーヒーの苦みと戦っていた。自分が美味しいと感じないからどれが良い味なのか分からず、使用人に試飲を頼んでは手順を書き出し調整、それを繰り返していた。
雨が降ったからだろうか。お昼頃に比べると、ほんのり気温は下がったように感じる。それでも木陰からでると、太陽は容赦なく肌を熱した。
「氷があれば、冷たくできたのですけれど」
教会領はいつもひんやりしており、大きな氷室もあった。しかしガットア領は気温が高い。自然の氷が無いのは勿論のこと、他領から運び込んでもすぐに融けてしまうため希少品なのだ。
「温かくてもおいしいよ。エディ君が淹れてくれたんだもん」
花が落す影のなかできらめく髪、刺繍が施された衣装のたおやかな姿。隣席にある桃色の瞳はやわらかに細められており。
――女神様かな?
セレナのジルに対する評価は花蜜のようだ。使用人から何度もダメ出しをされていたから、セレナの言葉はことさら甘く感じた。苦いコーヒーを飲むラシードの評価はどうだろうか。正面へと顔を向ければ。
「不味くはない」
端的に評したラシードは手にしたカップを皿へと戻し、席を立った。テーブルから少し離れた位置に就いている。護衛騎士は職務に戻ったのだろう。味をみて欲しいというジルのわがままに、ラシードも付き合ってくれていたのだ。
――及第点、かな。
テーブルに置かれたカップの中身は、きれいに飲み干されていた。
◇
夕食の席にはファジュルがいた。果樹園の実り具合、帆船に積んでいた交易品の質などを確認していたそうだ。食事の合間に特訓の成果を尋ねられたジルは、しっかり務めると答えた。
「私は隣にいるだけでいいって、どういうことなんだろう」
首を傾げた動きに合わせて小さな水紋が起こり、広い浴槽に浮かんだキャンドルの火がちらちらと揺れた。セレナは夕食時にファジュルから、商談に同席するよう言われていた。
明日は宴ではないから、聖魔法を使うような事態にはならないと思う。ゲームではヒロインに回復魔法を使わせるため、ファジュルは子供を雇っていた。酒に酔ったジャバラウ商会の人間に近づき粗相をさせる。怒った商会の人間は手を上げ子供にケガをさせるのだ。
ファジュルが仕組んだ騒ぎだと知らないヒロインは慈悲のままに子供を癒し、聖神官だと知られてしまう。誘拐されたヒロインはジャバラウ商会や魔素信仰者、そしてファジュルに対してとても怒っていた。
子供が仕事を受けたのは生きていくためで、喜んで引き受けたわけじゃない。自分よりもずっと大きな人間に殴られて怖くないはずがない。貧困や立場の弱さにつけ込むのは卑怯だ、と。
雇われる子供のことを思えば、取引は成立しないほうがいいのかもしれない。しかしそうなれば、ジャバラウ商会の不正摘発は遅れてしまうだろう。無許可の魔法石は、攫われた人々によって作られているのだ。
灯りを絞った薄暗い浴場。そのなかで霧を集めたようなほんのりと白い湯を両手にすくい取り、ジルは顔にかけた。
「考え込んでいると、のぼせてしまいます。そろそろ上がりましょう」
一人の子供と攫われた人々。天秤はどちらにも傾いてはいけないのだろう。けれどジルは、ファジュルの計画を黙認した。
◇
護衛騎士は今日も見張りについていた。セレナを客室まで送り届けたラシードは、そのまま踵を返した。今はだれも使用していないから、浴場に行ったのだろう。
セレナに就寝の挨拶を告げたジルは、誰もいない副寝室に入った。きれいに整えられた寝台から上掛けを引きはがす。
居間に戻ったら上掛けに包まって、明け方と同じようにソファへ寝転んだ。ラシードが帰ってきたとき室内が暗いと不便だろうから、魔石ランプの明かりは落としていない。光から逃れるように、ジルは上掛けに顔をうずめた。




