161 毒と酒
直後、ジルの体は凍ったように硬直した。後ろから音がしたのだ。カチャリ、と。
「何をしている」
両肩が跳ねた。こうして重低音で尋ねられるのは何度目だろう。冷えた頭をセレナから引き剥がし、ジルは扉の方へと顔を向けた。朱殷色の瞳がジルを睥睨している。護衛騎士は僅かに眉根を寄せたあと、手にしていた水差しをテーブルに置いた。
「果実水を飲んだあと、セレナ神官さまの体調が……毒ではないかと思い」
護衛騎士が部屋にいては聖魔法は使えない。その場で姿勢を正したジルは状況を説明し、介抱を求める方針に転向した。ラシードは黄金色の液体が残った瓶に顔を寄せ、何かを確認している。
「飲んだ量は」
「こちらのグラス、一杯です。お水でうすめながら、ですけれど」
瓶をテーブルに戻し、ラシードはソファで横になっているセレナへと近づいた。入れ替わるようにしてジルはその場から離れる。手早く顔色や呼吸、脈拍を確認した護衛騎士はセレナの体へと手を伸ばし、軽々と抱え上げた。
「んんー……ぁ、ラシードさまだ。おかえりなさい」
横抱きにされた振動で目を覚ましたのだろう。セレナは護衛騎士の腕のなかで、ふにゃりと溶けたような笑みを浮かべた。
――良かった。意識はある。
「遅くなり申し訳ございません。寝台までお運び致します」
「だいじょうぶですよ?」
「エディ、水を持ってこい」
「はい!」
ラシードの変わらない無表情が、セレナは大丈夫だと伝えていた。いつもの調子で淡々と足を進めている。ジルは先回りをして寝室の扉を開け、水差しとグラスをトレーに載せて後を追った。
宝石箱のような天蓋つきの寝台へと下ろされたセレナ。聖女という宝を護る騎士のラシード。二人の様子は、夢でみたゲームの一場面を切り取ったようだった。
「眠る前にお飲み下さい」
ジルの持つトレーからグラスを取り水を注いだラシードは、セレナへと差し出した。飲みやすい体勢となるよう背を支えている。グラスの水がすべて無くなったのを確認すれば、セレナをゆっくりと寝かせた。
「本日はそのままお休み下さい」
「はぁい。エディくん、ラシードさま、おやすみなさい」
「おやすみなさい、セレナ神官さま」
肌は赤いままだったけれど、苦しそうではない。むしろどこか楽しそうなセレナに胸を撫で下ろしたジルは、魔石ランプの灯りを一つだけ残してラシードと共に退出した。
今となれば果実水かも怪しい飲み物など誰も手をつけないだろう。ジルはテーブル上の瓶とグラスを片付けるため手を伸ばした。
「それは酒だ」
「おさけ!?」
ゴトリ、と手からすべり落ちた瓶が鈍い音を立てた。果実水も酒も飲んだことのないジルには分からなかった。飲んでいる時は不思議な味だとしか思わず、足元がふらついて初めて危険を感じた。傍に立った護衛騎士がジルを見下ろしている。
「どれだけ飲んだ」
「…………セレナ神官さまと、同じ量を。すみません! お酒だって気がつかなくて」
ジルは成人していてもエディは違う。未成年の飲酒は教理に抵触する。慌ててラシードに弁解すれば、下げた頭の前に水を差し出された。
「飲んでおけ。翌朝がマシになる」
「ありがとう、ございます。あの、教会には……」
「報告するなら騙した人間のほうだが、この程度は口頭注意で終わりだ」
「そう、ですか」
罰せられないと分かってほっとしたような、なにか釈然としないような。それでも大事には至らなかったのだからと、ジルは水を飲み干した。からのグラスや瓶を集めてトレーに載せれば、低い声音に手を止められた。
「お前も早く休め。この件は俺から抗議を入れておく」
「それでは、移動だけ、っ! い、移動は僕じゃなくて……!」
無言で後ろから抱え上げられた。身長差が大きいためジルの両足は簡単に床から離れている。身をよじり対象が違うと抗議してみたけれど、腰に回された腕は一向に緩まない。ジルは淡々と副寝室の前まで運ばれてしまった。
「片付けはここの使用人にさせる。扉をあけろ」
「……………………、分かりました」
ラシードの指示に応じないというジルの抵抗は、後頭部に刺さった気配によって早々に終わりを告げた。副寝室の扉をあければ、荷物のごとく寝台に下ろされる。
「俺を待つ必要はない。寝ろ」
正座したジルの頭に声を降らせたラシードはそれだけを言って部屋から出ていった。就寝の挨拶をする間もなかった。扉の閉まる音から一拍、ジルはやわらかな寝台に倒れ込んだ。
「お酒は毒だ」
抑えていた魔力を解放すれば、状態異常はたちどころに消え去り体は楽になった。




