160 水差しと果実水
「あれ? お水がある」
ジルとセレナは浴場から客室に戻っていた。ラシードはファジュルに腕を引かれて調理場へ水を取りに行っている。のだけれど、目の前には水差しが置かれていた。この広い客室には簡易的な台所も併設されており、ジルはグラスを探しにきたのだ。
――せっかく持ってきてくれるんだから、これは置いておこう。
部屋に水が用意されていることを、ファジュルは知らなかったのだろう。棚から取り出した三つのグラスだけをトレーに載せた。セレナが待つ居間へと戻るため蔓で編まれた衝立を横切ったとき、乾きはじめた髪が揺れた。
濡れた頭に風が触れて、ひんやりと気持ちいい。髪が短いと乾くのが早い。だからジルは簡単に拭いたあとは自然に任せていたのだけれど、リングーシー領にいた時は風邪を引くからとルーファスによく頭を拭かれていた。
部屋の奥から吹き込むぬるい風は草木の匂いがした。聖女一行に宛がわれた部屋は邸の中庭に面していた。前庭と同様に魔石が埋められており、零れ落ちんばかりに咲いた赤い花が夜に浮かび上がっている。
テーブルの上にトレーを置けば、寝衣に着替えたセレナがソファで首を傾げた。
「ありがとう、エディ君。……三つ?」
「バクリー騎士様も飲むかな、と思いまして」
「甘いもの大丈夫そうだったもんね」
貰った果実水の量は多くないけれど、一人一杯にはちょうどいい。ジルは瓶を手に取り、軽く差し込まれたコルク栓を取り外す。キュッと音がしたあと、ほわりと熟した甘い香りがのぼってきた。果実水とはどれもこんな香りがするのだろうか。それともブドウのものだけなのか。飲んだことのないジルには判断がつかない。
「これは色が薄いんだね」
「通常とは、色が違うのですか?」
「ブドウの皮って濃い紫色でしょ? だから果実水、ジャムなんかも紫色になるの」
二つのグラスへ黄金色の液体を注ぎ終えたジルは、セレナの側面に置かれた一人掛けのソファに腰を下ろした。
「珍しい品種、と仰っていましたね」
「味も違うのかな?」
「「……」」
グラスを手に取った二人の視線は、ついと客室の扉へと向かった。無言で眺めるジルとセレナ。扉は動く気配がない。瓶にはちゃんと、ラシードの分を残している。
「「先に」」
見事な二重奏だった。続くはずだった言葉は笑い声に変わり、二人はグラスを傾けた。まったりとした口当たりで、熟れた果実を飲んでいるようだった。しかし甘みのなかに、果物の酸味とは異なる刺激もある。これも珍しい品種の特徴なのだろうか。ブドウの果実水は喉に熱を移して流れ落ちていく。
「甘いんだけど……ちょっと飲みにくいかも」
「濃いですね。お水で薄めてみましょうか」
ファジュルが言った口直しの水、その意味が分かった。ジルは衝立の向こう側に置いてあった水差しをテーブルに運んだ。それから二人は果実水をすこし飲んでは水をたし、と繰りかえし。
「あ、エディ君これ! ふふ、やっとおいしく飲めるね~」
グラスのなかで果実水と水が同量になったとき、セレナが楽しそうに声をあげた。おいしい割合をみつけて、よほど嬉しかったのだろう。あいらしい笑顔は、いつも以上にやわらかくなっている。桃色の瞳はうれたようにきらめいており、肌には赤みがさしていた。もしや熱でもあるのだろうか。
「セレナ神官さま……ご体調が、悪いのでしょうか?」
「どうして?」
「お顔がすこし赤いです」
「う~ん、そういえばふわふわ? するかも」
あらった髪をちゃんと乾かさなかったからだろうか。風邪をひいてはたいへんだ。おしゃべりは終わりにして、セレナには寝台にはいってもらおう。そう思いジルは、ソファからたちあがった。
「えっ」
のばした膝はかくんとまがり、ジルはまたソファの上にもどってしまった。何かがおかしい。そういえば自分の肌もすこし、赤いきがする。しかしジルはこれまで風邪をひいたことがない。まさか。
――どく!?
火の大神官がどくをもるなんて考えもしなかった。かわった味の飲みものだとばかり。ぽかぽかする体であたまのなかは真っ白になったジルは、すぐさま魔力を解放した。
途端にジルの四肢は軽くなり、思考は明瞭となった。自己回復が効いたということは、果実水には状態異常を引き起こす成分が入っていたということだ。手遅れになる前にセレナも解毒しなくてはいけない。つらいのだろう、セレナはソファの上に身を横たえている。
――でもどうやって。
他者の毒を消す方法は知らない。ケガと同じように、自分とセレナに傷をつけて聖魔法を施せばいいのだろうか。いや、それでは傷を覆うだけで終わってしまうだろう。教皇は道を作れと言っていた。体内に聖魔法を巡らせるための道、傷ではない消えない出入口。確証はないけれど。
「っ、迷ってる場合じゃない」
ジルはグラスに残った果実水を一息にあおった。くたりと横たわるセレナの前に膝をつき、薄く開いた唇へと顔を近づける。




