159 火の大神官 ファジュル・ラバン
視点:ファジュル
編み椅子に身を沈めれば、虫や鳥に交じって蔓が短く鳴いた。潮声は遠く、視線の先には樹の海が広がっている。
談話室を退席したファジュルは自室のバルコニーに出ていた。傍らに控えた使用人が食後酒を注ぐ。グラスを傾ければ芳醇な香りと酸味がひろがり、甘く喉を焼きながら沁みこんでいった。
「あとは勝手にやるから下がっていいよ」
ひらひらと手を振れば、待機していた使用人は一礼したのちに退出した。黄金色の液体を舌に乗せれば、慣れた口が次は当分先でいいと訴えた。珍しいブドウで造られたという果実酒は熟れ過ぎたように甘い。
久しぶりに会った娘も相変わらず甘かった。自分は弟のエディだと名乗ったが、ファジュルはひと目見て女だと分かった。骨格は服で隠せていたが肌のきめが違った。エディの容姿を知らないため、先入観がなかったのも大きいだろう。
安泰な聖の神官見習いがどうして従者なんぞをしているのか気にはなったが、面白そうなのでファジュルはそのまま様子を見ることにした。結果。
――鈍いにもほどがある。
従者の正体にセレナは気が付いており、ラシードは気付いていなかった。夜の甲板で騎士服を被せたのはなぜか。理由を隠そうとするから正しく認識したのかと思えば、ラシードにたいした変化はみられない。女に興味がないのか知らないのか。
つまらなさ過ぎてファジュルは逆に面白くなってきた。帆船での件は不慮によるものだったが、三人の部屋を変えなかったのは故意だ。どうせラシードは手を出さない。それに。
――明後日の商談が愉しみだ。
自身よりも他者の利益を優先するお人好しには胸焼けを覚える。が、それが己の幸福だと信じて疑わないのなら便乗するだけだ。娘には存分に働いて貰おう。転がり込んできた思わぬ駒に、ファジュルは薄く笑みを刷いた。
果実酒は一本あける前に厭きてしまった。
口直しの酒をとりに一階へと降りたとき、廊下の先に鈍色の髪がみえた。並ぶ使用人のなかに飛びぬけた長躯が一つ。浴場担当の使用人は性格重視で雇っている。それもあってか神殿騎士のラシードは体格がまるで違う。鍛えた見目形は好みなのだが。
「姫さんのおもりかい?」
「警護です」
「一緒さ。なかの方が護り易いだろう」
「エディが就いています」
「アハハハハ、先に取られたのか」
火の大神官が話しかけているというのに、愛想の無い顔は正面を向いたまま動かない。その顎へファジュルはついと指をすべらせ、唇を寄せた。
「一人じゃ寂しいだろう。アタシが一緒に入ってやろうか?」
わざとらしい程の甘ったるい声色としなを作れば、朱い瞳だけがこちらを向いた。
この辛気くさい目がファジュルは嫌いだ。復讐心に駆られた同族への嫌悪ではない。商売の観点からみれば、売り物をダメにする魔物は早く根絶やしにして欲しいくらいだ。気に入らないのはその先。娘が従者をしている目的は知らないが。
――甘ちゃん二人の方が上だね。
ラシードは視線を寄こすだけで何も答えない。相手をするだけ無駄だと思っているのだろう。騎士団に拾われる前からそうだった。商会が雇う用心棒に子供が紛れているのは珍しい。ファジュルは数回居合わせた程度だが、ラシードはいつも独りだった。仄暗い瞳は他者を拒絶し、過去ばかりを見ている。
大仰なため息を吐きながらラシードから身を離せば、浴場へとつづく扉が開かれた。
「ラシード様、お待たせしました。あっ、ファジュル様! お湯ありがとうございました」
上気した頬をゆるませたセレナが軽く一礼してきた。乾ききっていない濡れた髪は、華麗な金冠のごとく煌めいている。ここは気温が高いから放っておいても風邪は引かないだろう。
「先にいただきました。ありがとうございました」
セレナの後ろで、目を泳がせた娘が会釈した。混浴だと通知されているとはいえ、聖女と従者が同じ湯に浸かっていたのだ。さらにファジュルの気分を害した意識があるため気まずいのだろう。
「湯加減はどうだった?」
「ぬるめのお湯で、とてもゆっくりできました」
「湯上りは喉が渇くだろう。アタシには甘すぎてね、よかったら飲んでくれないかい?」
ファジュルは半分ほどの量になった酒をセレナに渡した。この果実酒は試飲用で、銘柄を刻んだ札はついていない。好奇心に負けて近づいてきた艶やかな銀冠にファジュルは手を置いた。
「ブドウの果実水だ。珍しい品種を使ってて甘いから、口直しの水をラシードに持って行かせよう」
「ありがとう、ございます」
「これの処分で料理の件は帳消しだ」
「えっ」
「なんだい、利子を払いたいのかい?」
「いえ! 今後は、気を付けます」
健やかで愛らしい容姿に、勝気と洞察力を隠したセレナも好い。しかし今は。負けん気が強いくせに自信がない、不安定な娘をつついたほうが面白い。
従者の頭に手を置いたときラシードの眉が僅かに動いた。それを見逃さなかったファジュルは先の評価を改め、オモチャが増えたと口の端を上げた。




