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傾界の聖女  作者: たま露
【火の領地 編】
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158 恩と立場

「アタシは働きに見合うだけの報酬を出してる」

「失礼いたしました」


 呆れたような深い溜息が吐き出された。知らずのうちにジルはファジュルを非難していたのだ。申し訳なさから顔を上げられず、テーブルに視線を落としていた。


「内々のことにまで気を回す必要はない。それがアンタの利益になるってんなら話は別だよ」


 かすれ気味の声がこんこんと溢れている。視界の端から手が現れ、空になった皿が下げられた。次いで白い薄片をまぶした小さく丸い料理が現れる。窓から入ってくる風にのって、甘い香りが鼻先に届く。


「けどね、売った恩は相手が認知してこそなんだ。表に出なきゃ、何もしてないのと同じだよ」


 無駄なことだと切り捨てられた。視界の端に、二つ目の皿が入り込んできた。薄くなめらかな木皿の上には、先ほど出されたものと同じ料理が盛られている。


「いつか気付いて貰える、なんてのはただ祈ってるのと同じだ。それは従者をしてるアンタが一番解ってるだろう、エディ」


 椅子を引く音が聞こえた。テーブルから顔を上げれば、ファジュルは席を立っていた。豊かに波打つ亜麻色の髪が肩から掃われ、紅玉のような瞳がジルを捉える。


「そこの神官なんかは、それが気に入ってるんだろうけどね」

「はい、大好きです!」

「甘すぎて胸焼けがしそうだ。勿体ないと思うなら、残りはアンタ達で片付けときな」


 セレナの宣言に鼻を鳴らしたファジュルは、興が醒めたとばかりに談話室を出ていった。ヒールの音が遠ざかり、主人のいなくなった室内に静寂が訪れる。


 家族以外から怒られたのは初めてだった。講義中に注意を受けることはあったけれど、それは講師と生徒という関係があったからだ。それならファジュルは、主従という関係からジルをたしなめたのだろうか。


「ファジュル様も、エディ君が大好きなんだね」

「え?」

「お菓子くれたでしょ?」


 ファジュルの席に、甘味の木皿は置かれていなかった。セレナとラシードの前には一皿しかなく、ジルの前には二皿並んでいる。セレナは何事かを思い出すように、頬に指を当てて視線を上向けた。


「従者さんって、主人の評判、品格? に繋がるんだよね。でもエディ君は気にしなくていいって。何かあったらちゃんと報告しなさい、って言ってたんじゃないのかな」


 にっこりと笑ったセレナは、白くて丸い菓子を口に運んだ。軽く眉が上がったあとも表情は変わらないため、味覚に合ったようだ。フォークを片手に桃色の瞳が悪戯っぽく光る。


「エディ君が食べないなら貰っちゃうよ?」

「いただきます! でも、どうぞ」


 食事の空気を悪くしてしまったお詫びにと、ジルは皿を差し出した。作法としては良くないのだけれど、それを咎める人はいない。セレナは遠慮なく、と嬉しそうに受け取ってくれた。席を立ち、置き物のように静かだったラシードにも差し出せば、無言だけれど食べてくれた。


 ――不思議な食感。


 席に戻ったジルは、白い薄片をまとったひと口大の菓子を食べた。シャリッとして、もちっとしていた。それからとろりと、舌のうえに甘い蜜がひろがる。もちもちとした生地は初めて食べるもので、どのくらい噛めばいいのか少し迷ってしまった。


 皆がくれた心遣いを、ジルはゆっくりと飲み込んだ。


 ◇


 浴場へと続く扉の傍には、男女四名の使用人が待機していた。必要とあらば着替えの手伝い、髪や体なども洗ってくれるらしい。香油を使ったマッサージも行っていると説明されたけれど、当然ジルは必要ないと断り、事情を知っているセレナも遠慮した。


「見張り、よろしくお願いします」


 これだけ使用人が並んでいるなら必要ないのでは。と思いはしたけれど、邸内で一番強いのはラシードだ。セレナを護るためにも近くにいたほうがいい、そう結論づけた。にこやかに護衛騎士へお願いしたセレナは足取りも軽く扉をくぐった。その後を追うためジルも足を踏み出したとき。


「立場を忘れるな」

「心得ています」


 護衛騎士から釘を刺された。エディは未成年とはいえ、セレナとの差はたった二つ。いくら伴を命じられたからといって、変な気は起こすなという忠告だろう。実のところ二人は同性なのだけれど、それは言えない。だからジルは真摯に受け止めた。


 ―― 一番近くで護れるのも確かだし。


 浴場には更衣室が併設されていた。個室になっているため、湯着に着替えるとき人目を気にしなくてもいいのは助かる。


 ――でも、混浴なんだよね。


 広い浴場を二つ造り、それを維持するのは大変だからだろうか。それとも何か意図があって、と思考が移行しかけたところでジルは考えるのを止めた。自分はいま未成年だ。

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