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傾界の聖女  作者: たま露
【火の領地 編】
158/318

157 邸と使用人

 広い玄関ホールを通り過ぎ、使用人は次々と部屋を紹介していった。応接室、談話室、食堂、調理場、商会長の寝室兼執務室。そして。


「あの、本当にここ、いつ利用してもよろしいのでしょうか……!?」

「清掃中の札がない時でしたら。会頭が滞在中は常に解放しております」


 両手両足を投げ出しても到底届かない、広いひろい浴場が目の前にあった。三十人は同時に利用できるのではないだろうか。こんこんと溢れ出る水はほのかに白く、上る湯気は蜂蜜をおもわせる芳香をまとっている。水面には贅沢にもキャンドルが散りばめられており、灯りを絞った薄暗い浴場で、小さな炎がちらちらと踊っていた。


 魔石ランプが普及している生界では、火による光源は不便でしかない。キャンドルの生産量は少なく、趣味高級品のひとつだ。それを、誰もいない時にも灯しているのはジルからしてみれば、無駄遣いにしか思えなかった。


「こちらは男女混浴となっております。ご利用の際は湯着をお召ください」

「分かりました」


 この邸に滞在しているのはファジュルにセレナ、ラシードとジルの四人だけ。使用時間にさえ気を付ければ堪能し放題だ。セレナも楽しみなのだろう。使用人の説明に水蜜の瞳をキラキラさせて返事をしていた。そのキラキラした瞳がジルを見る。


「一緒に入ろうね!」

「いえ、それは……入浴中の見張りが、必要ですから」

「見張りはラシード様にお願いしよう。よろしいですか?」

「ご随意に」

「決まりだね」


 ジルが気付いていないだけで、実は従属の契約が働いているのだろうか。両手を合わせて花のような笑顔を向けられると強く断れず、セレナの要望を承諾してしまうのだ。あるいは友人がいなかったから、ジルもこのやり取りを楽しんでいるのかもしれない。


 浴場を離れた一行は客室に案内された。セレナが利用する主寝室に、続き部屋となっている居間、そしてもう一つ副寝室があった。護衛騎士や従者はこちらを利用するようにと説明を受けた。


「夕食が整ってございます。どうぞこちらへ」


 少ない荷物を客室に置いたところを見計らって使用人が移動を促してきた。通されたのは食堂ではなく、談話室だった。部屋の中央に置かれた丸形テーブルに邸の主が座っている。


「ここは風が通り易いんだ。慣れてないアンタ等にはこっちの方が楽だろ?」


 ファジュルは片手をひらりと掲げて暗い壁を示した。壁だと思っていたそれは夜の海で、大きく開け放たれた窓からは風が入り込み、左右に押しやられたカーテンを揺らしている。


「とても嬉しいです。ファジュル様、ありがとうございます」


 椅子を引いていたジルは、セレナの動作に合わせて前へとずらした。綺麗に着席したセレナをみて、ジルはほっと息をつく。自分が座るのと他者へ行うのとでは緊張感が違う。壁際で控えようと踵を返したとき、背後から声が上がった。


「エディ君やラシード様は一緒に食べないの?」

「船内とは、状況が異なりますので」

「アタシが許す」


 ファジュルはコツコツと爪でテーブルを叩いた。座れということだろう。ガットア領でも、主人と同じ食卓を囲むことになりそうだ。ラシードは護衛を兼ねて扉側を選ぶだろうから、ジルはその正面に移動した。四人がテーブルへついたのに合わせて料理が運ばれてくる。帆船での食事とは違い、ここでは一品ずつ提供されるようだ。


「……からくない。っ、失礼いたしました」


 生魚と葉野菜にソースのかかった前菜を口に入れたジルは、驚きのまま声に出していた。ここの食事は基本的に辛いのだと認識していたから、覚悟を決めていたのだ。饗された料理にけちを付けるような格好となり、ジルはすぐに詫びた。


「構わないよ。辛いのが良かったのかい?」

「甘いほうが、食べやすいです」


 ここで誤魔化すと今後の食事が苦痛になりそうだったので、ジルは正直に答えた。直後、ファジュルが片手を上げた。壁際に控えていた給仕係が一人近づいてくる。


「セレナは?」

「私は辛いのも甘いのも好きです」

「以後、エディに出す料理は辛みを抑えたものに。今夜の分もだよ」

「畏まりました」

「大丈夫です! 勿体ないのでいただきます!」

「邸の主人はアタシだ。まずい料理を食べさせたって恥をかかせる気かい?」

「……申し訳ございません。ご配慮に、感謝いたします」


 つづく肉料理やスープ、主菜の辛そうな色をした海鮮料理でさえ食べやすい味付けになっていた。


 食事の合間に、船で黙っていたことをファジュルに叱られた。セレナには気がつけなかったと謝罪されてしまい、いた堪れなくなった。ジルは気取られないよう努めていたのだから当然だ。


 それに自分のわがままで、限られた食材で調理している使用人の仕事を増やしたくなかったのだ。

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