155 困惑と相槌
日々の鍛錬で硬くなった手のひらに反して、髪をとおして伝わってくる気配はやわらかだった。頭上から注がれる声と眼差しも、ジルが初めて見る。
――ううん、違う。夢でみた。
戦闘熟練度と好感度。二つの条件を充たしたヒロインへと向けていた。ラシードはなぜその姿をジルに向けているのだろうか。
朱く暗く、奥のほうに埋もれていた熾火の瞳が今は、身をあたためてくれる焚き火のような色を灯している。重低音な声は変わらないけれど、緊張感をもたらす硬質な響きはなく、角を落としたようなまるみを帯びていた。
神殿騎士団の人間がここにいたら、きっと目も口も開きっ放しだっただろう。ラシードに想いを寄せている者がいたなら、頬を染めていたに違いない。しかしジルは。
――こわい。
困惑にただ瞬きを繰り返していた。ラシードが何を考えているのか分からない。意図が分かり易いだけ殺気のほうがましだ。
ルーファスやクレイグのように自分を女性だと認識しているのなら、まさかとは思うけれど疑う余地はあった。でもラシードは姉弟の入れ替わりに気が付いていない。護衛騎士は攻略対象だ。恋愛対象はヒロイン、つまり異性であるはず。
「今日は、ご心配をおかけしました。これで失礼いたします」
護衛騎士の思惑が不明である以上、長居してもいいことはない。ジルは頭に乗せられた手から逃れるように深く腰を折った。鍛えられた長躯の横を通りすぎ扉をあけて、立ち止まる。当初の用件を思い出した。
「お預かりしていた、上着のお洗濯は」
「目立つ汚れは無かった。必要ない」
「分かりました。あの……お部屋にあった石鹸、使ってもよろしいでしょうか?」
「石鹸?」
振り返った先にいるラシードはいつもの気配に戻っていた。共に過ごしたのは三ヶ月間とはいえ、こちらのほうが落ち着く。ジルの確認に鈍色の眉根を寄せた顔も見慣れてきた。
「白い、花の印章が押された石鹸です。たしか、苦手な香りだったと……」
「言った覚えはない。使いたいなら使えばいい」
「ありがとうございます! おやすみなさい、バクリー騎士様」
海風でべとべとした体を石鹸で洗えるのがジルは嬉しかった。水だけで清めるのとは仕上がりが断然違うのだ。早く自分の船室に帰りたくて、ジルは声と足をはやらせ退出した。
◇
翌朝、甲板で行われた日課は三ヶ月前に戻ったようだった。ここ二ヶ月くらいは、ただ黙々と剣を振るだけだったのに。
「肩に力が入り過ぎている」
素振りを始めて十分くらいが経ったころ、隣にいたラシードから指摘が飛んできた。驚きのあまり長剣を振り上げたまま、ジルは凝視してしまった。無表情の護衛騎士は顎を動かし、無言で再開を促してきた。
「まだ硬い」
――あなたのせいです。
とは言えず、ジルは居心地の悪さを感じながら剣を振り続けた。素振りはいつも通りのニ十分程度で終わったけれど、合間に水夫たちから揶揄われたり励まされたり同情されたりで、いつも以上に疲れてしまった。
「ご指導、ありがとうございました」
体力は十分に残っている。しかし消耗した精神に引きずられた声は、平坦ではなく棒になっていた。明日以降も続くのか、と出かかった言葉はぐっと飲み込んだ。これを言ったら、自分の首を絞めることになると勘が告げている。
剣を収めたラシードと共に船室へ戻ろうとしたとき、甲板と船底を繋ぐ階段から一人の女性が現れた。薄紅の衣装をまとった使用人はジルを見つけるなり一礼する。
「こちらにお出ででしたか。お着替えの準備が整ってございます。どうぞこちらへ」
昨夜ファジュルは別の服を用意させると言っていた。ジルが部屋にいないから探していたのだろう。使用人は胸に手を当て、ほっと息をついていた。ジルはラシードに断りを入れて使用人の誘導に従った。
昨日と同じ、その部屋には色とりどりの衣装が並んでいた。そこから使用人は生地の軽いチュニックを取り出し、ジルに手渡してきた。色は濃い紫で長めの丈、裾には銀糸の刺繍が施されている。
「昨日は申し訳ございませんでした。お似合いの衣装をと優先した結果、あのような……」
「これ、似合ってますか……?」
機能性の良し悪しは判断できるけれど、神官見習いの法衣ばかり着ていたから意匠は気にしたことがない。着用している薄紫の服をジルがつまんでみせれば、しおらしかった使用人の両目がくわっと見開かれた。
「それはもう、疑いようもなく! 男性とも女性ともつかぬお姿は実に神秘性があり、布一枚という一切のむだを排した衣装は従者様のすらりとした体型の無垢を演出すると同時に、背徳感という色香をも引き出し……ああ! 許されるならば上着はなしでお願いしとうございました!!」
「そ、そうですか」
気圧されたジルは若干背を逸らしながら、礼ともつかない相槌を返す。怒涛の勢いで語る使用人の瞳は爛々としており、少し怖かった。
「失礼いたしました。お着替えが済みましたらお声掛けください」
ハッと我に返った女性の使用人は姿勢を正し、ジルに一礼して静々と部屋を出ていった。




