154 家族と少年
視点:ラシード
家族を護る。良好な関係を築いている者なら、誰しもが抱く想いだろう。少年はウォーガンの実子ではないと聞き及んでいる。ならば護りたいのは血縁である姉のほうか。
「義父のように、強くなりたいのです」
意志の籠った声にラシードは視線を動かした。少年の背丈は己の肩ほどしかない。そこから紫水晶のような瞳が真っ直ぐに見上げている。先ほどまでの不安定な気配は消え失せていた。
――父のように。
その言葉は、ラシードの胸にひとつの答えをもたらした。
隊商の長をしていた父は勇猛で、いつも人に囲まれていた。その姿は誇らしく、幼いラシードの目標だった。定住しない家族を運ぶ幌馬車のなかはいつも、甘い花の香りに満ちていた。ガットア領にいれば珍しくないその花は、母のお気に入りだった。
これまでにも同じ匂いを嗅ぐことはあった。しかし、家族とともに埋めた感情が這い出てくることはなかった。目の前にいる、少年が現れるまでは。
放っておいても視界に入り込み、ラシードのやわいところを掘り起こしていく。
危なっかしい言動に目が離せなかったのも。関わるまいと決めたのに口を出してしまったのも。可愛がっていた幼い弟妹が想起されたからだ。
魔物を討伐したあと、先に倒れるつもりはないと言われ苛立ったのも。自分に向けられる視線とルーファスに向ける視線、その違いに覚えた不愉快も。風の神殿を出立する日の朝、剣を向けられて胸が騒いだのも。水夫と話しているのを見て、なぜそうも簡単に心を許しているのかと癇に障ったのも。すべて――。
先刻、気が付けばラシードの足は甲板へと向かっていた。空から月が落ちてきた。柄にもなくそんなことを思ってしまった。
落下する少年を受け止めたのは二度目だ。今回はなにが原因かと上に目を遣れば、肩を抑え座り込む水夫が見えた。どうやら一悶着あったらしい。ラシードは眼下から発せられた声に視線を落とし、少年を落としてしまった。
ファジュルによって着替えさせられた薄紫の服がはだけていた。羽織った上着の下にあるそれは大きな布のようで、かろうじて胸元を隠していた。露出した少年の肌は白く、男とは思えない程なめらかで一瞬、女ではないかと錯覚してしまった。
だがあり得ない。たとえ女だったとしても、どこで剣を覚えたというのか。なにより、従者に任命した教会が気付かないはずがない。
水夫はこの華奢な少年に邪な感情を抱き返り討ちにあった。その結論に至るが早いかラシードは少年に上着を被せていた。
まさか同性から襲われるとは考えもしなかったのだろう。恐怖か驚きか。いづれにしても物見台から飛び降りるほどだ。少年は部屋に帰し、水夫は海に放るなりして自分が片付ければいいと思っていた。
その思考の過程で、ひとつの仮定が浮上した。
なぜデリックはこの少年を専属従卒に選んだのか。魔法が使えない者を専属にしたところで、戦場では足手まといにしかならない。ならば利点はなにか。いささか調子が軽いとはいえ、デリックがそんな男ではないとラシードは知っている。が、事この姉弟に関しては暴走していたように思う。まさかあの水夫と同じように。
転倒しそうになった少年を支えたことで、その仮定はより信憑性を帯びた。
ラシードへと向けられる視線にはいつも、警戒や威嚇、怯えが含まれていた。しかし詫びと共に向けられた瞳には、それらが欠片もみえなかった。
潤んだ紫水晶の瞳は儚げで、目が離せなかった。顔に添えられた手、抱えた体は細く、今にも折れてしまうのではないかと不安を覚えた。
もしデリックから不当を強いられているのなら。今まで必要性を感じなかった専属従卒の勧誘が、口から零れ落ちていた。しかしラシードの勧誘は失敗に終わった。躊躇いどころか両断するがごとく少年に拒否されたときは、自分でも驚いたことに落胆していた。
デリックは随分とこの少年に好かれているらしい。やわいところからまた何かが滲み、ラシードの胸を覆っていく。これも少年と家族を重ねているからだ。
――どうあっても儀式が終わるまでいるんだ。
放っておいても視界に入り込んでくるのなら、いっそのこと目に入れておけばいい。ルーファスがいない今、隙の多いこの少年は危うい。
神殿騎士団の団長であるウォーガンを目標にしているから、魔物にも詳しいのだろう。父のようになりたいのだと励む姿はラシードの胸に苦いものをもたらすが、同時に己のようになって欲しくないとも想う。一度は鍛えてやろうと考えたのだ。それを実行すればいい。
「そうか」
自分の灰髪とは違う、月明りのようなやわらかな髪。少年の頭を撫でるラシードの目元は、知らずやわらいでいた。




