152 喚起と査問
セレナのいる隣室、その扉前でジルは足を止めた。なんだかんだと機会を逃していた神殿騎士団の制服を、返しに来たのだけれど。
――汗とか汚れとか付いてないよね。
魔物襲来の勘違いから先ほどまで、ジルは上着に袖を通したままになっていた。夜の海上は汗が流れるほど暑いわけではない。それでも気分の良いものではないだろう。
帆船が着くまでに乾くとは思うのだけれど、勝手に洗っても大丈夫だろうか。せめてニオイだけでも。ファジュルが用意してくれた石鹸の香りを移せば誤魔化せる。
――ダメだ。バクリー騎士様、あの香り苦手だった。
ここは本人に尋ねるのが早い。ジルは上着を抱え直し扉を。
「そこで何をしている」
叩く前に、部屋の主が顔を出した。船室の扉や壁は薄い。部屋の前でごそごそしていたから、不審者に間違われたのだ。弁明を込めてジルは上着を掲げる。
「こちら、洗って明日のお返しでも、構わないでしょうか?」
「話は済んだのか」
「はい。あ……少し、お耳を貸していただけますか?」
船長室でラシードは、ジルが物見台から落ちてきたと言わなかった。セレナを心配させまいとした、ジルの考えを汲み取ってくれたのだ。隣の部屋に聞こえては頂いた気遣いが台無しになる。ジルはこっそりとお礼を伝えるため、下がってきたラシードの耳元に手を添えた。
「ものっ、ぅわ」
小さな声を届けようと、爪先立ちになっていたのが良くなかった。馬上とは異なる振動にまだ慣れない。船底から傾くような揺れでジルは重心を崩してしまった。傾くままにラシードの側頭へ顔を打ちつけたあと、振り子のごとく後方へと倒れそうになる。
それを今、ラシードが防いでくれていた。
大きな手に背を支えられ、ジルは床との衝突を免れた。ぶつけてしまった鼻をさすりつつお礼を伝えれば、見上げた先で朱殷色の瞳に軽く睨まれた。
似た状況は過去にもあった。あの時のジルは気が動転しており、ラシードとウォーガンを見間違えてしまった。けれど今の意識は明瞭だ。義父のようにゴツゴツとした手のひらだからといって、勘違いはしない。教会領でもリングーシー領でも助けてくれたこの手は。
――気持ち悪くない。
護衛騎士はちゃんと喚起してくれていたのだ。いつも傍にいて、ジルを護っていたルーファスはいないのだと。
教会領では争いごとなんて滅多に起こらない。風の聖堂にいる人々は親切だった。だからジルは鈍くなっていた。故郷では魔物よりも、人から向けられる悪意のほうが多かったのに。
ラシードが甲板にいたのは偶然だろう。でも、助けてくれた事実に変わりはない。注意に気が付けなかったことに、ぶつけてしまった頭に。
「ごめんなさい」
申し訳なさに眉尻が下がった。聖魔法は使えないから、せめてやわらげばとジルは患部をさすった。どのくらいそうしていただろうか。瞬きひとつしていなかったラシードが突如として動き出した。
「!」
両足が浮いたと思ったら、すぐに床へ下ろされた。先ほどまで背後には廊下があったのに、今は正面にある。視界のなかで扉を閉めたラシードが、こちらを振り返った。
「どうして従卒になった」
平坦で低い、査問するような声音だった。感情の窺えない双眸は油断なくジルを観察している。ひとつしかない出入口を塞がれた状況に、じわりと嫌な感覚が広がっていく。
あのとき男は、空気を震わさんばかりに叫んでいた。セレナを部屋まで送り、もし、もしもラシードが甲板まで引き返していたなら。
――バレた!?
心臓が飛び出したと思った。喉を閉じて、暴れる鼓動を無理やり抑えつける。ざわざわと這いまわる思考はすべて無視して、無表情を形づくることだけに集中する。
しかし、ずっと黙っているわけにもいかない。今は従卒になった理由を訊かれているだけだ。それだけを答えればいい。姿勢を正したジルは、ラシードに向かって口を開き。
――どうしよう知らない!!
発する音が見当たらず口を閉じた。ジルが神殿騎士団に乗り込んだのがきっかけだけれど、エディが専属従卒の誘いを受けた理由は訊いたことがなかった。
ラシードは第五、エディは第二神殿騎士団の所属だ。ジルがもっともらしい動機を答えれば、再確認に訪れるなんてことはしないはずだ。従卒、その先の騎士を目指すのに不自然じゃない理由は。
「利用されてるだけじゃないのか」
「……え?」
誰に、何に、利用されているのだろうか。ラシードの指摘するところがジルにはさっぱり分からなかった。とはいえ、ひとつでも言葉を誤れば自分の首を絞めることになる。
どう話を進めようか。そう考えていると、扉前にいた護衛騎士の足が動いた。ジルの頭上で、朱殷色の瞳が燿う。
「お前たち姉弟はそっくりだろう」




