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傾界の聖女  作者: たま露
【火の領地 編】
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149 上着と魔物

 物見台から落ちてこの程度のケガで済んだのだ。ラシードには感謝しかない。改めてお礼を伝えるために口を開けば。


「ふっ」


 夜が降ってきた。重たくて厚いそれを頭から引きずり下ろせば、神殿騎士団の制服だった。暑くて上着を脱いだのだろうか。


 ――邪魔だから持ってろ、ってことかな。


 しかしラシードは強化魔法で気温を調節できたはずだ。と考えてジルは気が付いた。一日中使用していたから、きっと残りの魔力が少ないのだ。昼に比べれば、夜は多少気温が下がる。だから今は強化魔法を使っていないのだろう。


 服を持つくらい安いものだ。ジルは護衛騎士の上着を丁寧に抱えて、甲板から立ち上がった。


「バクリー騎士様、お助けくださり、ありがとうございました」

「部屋に戻れ」

「上着は」


 どうすればよいか。などと悠長に訊ねている暇はなくなった。上着を放り投げるか、着てしまうかの二択。ジルは迷わず神殿騎士団の制服に袖を通した。ラシードとは体格が大きく異なるため動きづらいけれど、片手が塞がっているよりはましだ。


「何をしている」

「僕も戦います」


 どうして気が付かなかったのだろう。物見台から見ていたのに。


 月から垂れた白い帯が、ぐにゃりと波打った。真っ黒な海のなかで、何本もの白い帯がうごめいている。そのうちの一本が、帆船の手すりに張りついた。吸盤をもったそれの動きはヘビのようだ。三本、四本と数が増えたとき、海面が大きく盛り上がり。


 笛の音が夜を引き裂いた。


 くるりと巻いた羊角のような貝が現れ、帆船が大きく傾く。ぶつかった海水が甲板に打ち上がった。吸盤をもった白い足が、何本も船体に絡みついている。その出処、足の根元近くでは、ギョロギョロとした目玉が周囲を探っていた。


 ――弱点、弱点は。


 傾いだ甲板の上で、ジルは記憶に収めた魔物の報告録をあさる。思い出せない。ガットア領に、こんな魔物の記録はあっただろうか。


 しかし情報が無くても戦わなくては。長剣は船室、短剣は物見台にある。唯一残っている武器は投擲用のナイフだけだ。ならばジルが狙うのは。


「あんたら逃がすんじゃないよ!」


 高揚したファジュルの号令に、いくつもの勇ましい声が呼応した。先ほど聞こえた笛の音が合図だったのだろう。船底で休んでいた腕っぷしの強そうな水夫たちが、フォークに似た銛を手に魔物へと近づき。


「えっと……?」


 ただ見ていた。銛で攻撃するのかと思っていたけれど、何もせずじっと観察している。魔物は帆船を傾けるほど大きい。このままだと転覆してしまうのではないか。そんなジルの不安を読み取ったのか、傍に来たファジュルが笑い声を上げた。


「ソラトンはいい素材になるんだよ」

「魔物、では?」

「アイツは締めても砂にならない。(かね)になるんだ」


 つまり魔物ではない。ファジュルは儲ける計画を立てているのだろうか。楽しそうに口の端を上げて白い海洋生物を見ている。


 ソラトンは普段、貝のなかに籠り海洋を漂っているらしい。岩に張りつき月光浴を行う習性があるそうで、たまに岩と船を間違えるそうだ。しかし遭遇したのをこれ幸いと安易に掴もうものならぬるりと海に戻ってしまうため、十分に引きつける必要があるらしい。


 まるで仔馬の誕生に立ち会っているような面持ちで、水夫たちはソラトンを囲っていた。


「わっ」

「あれじゃあ、しばらくかかるね」


 羊角のような白い貝がやっと今、甲板の上に乗った。その反動でまた大きく船体が揺れる。揺り籠のようにゆらゆらと横揺れを繰り返し、足元の傾きが徐々に水平を取り戻していく。


 ソラトンは乗船を果たしたけれど、二本の足はまだ帆船の外、海のなかにあるため手は出せないようだ。


「で、あんたは何でそんな恰好をしてるんだい」

「暑いので、持っているようにと」


 ラシードから上着を預かっていたのだけれど、魔物が襲来したと思い、両手をあけるために着用したのだとジルは説明した。不思議そうに見ていた紅玉の目が、すっと細くなった。ファジュルは腰にあてていた手を離し、胸のしたで腕を組んだ。


「あの、この船に救護員さんは、いらっしゃいますか?」

「ケガでもしたのかい?」

「僕ではなく、あちらの方に……。申し訳ございません。ケガを、させてしまいました」


 物見台から降りていなければ、見張番の男はまだそこにいるはずだ。頭上を振り仰げば、身をひそめるように影が動いた。それに気が付いたファジュルは近くにいた偉丈夫へ耳打ちをし、ジルに向き直る。


「船長室で話を聴こうか。ラシードも一緒に来な」

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