148 星空と男
夜の海はインクをひっくり返したように黒かった。魔石ランプがあちらこちらに灯っていなければ、帆船との境目さえ分からなくなりそうだ。忙しなく働いていた水夫たちが今は休んでいるためか、波の音は体によく響いた。
昼間に利用したロープの前で柱を見上げれば、ジルへ手招きするように灯りが揺れた。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
一度通ったからだろう。二回目はするすると登ることができた。迎えてくれた青年は物見台の上で座っていた。それに倣ってジルも腰を落とす。
「灯りはないほうが綺麗なんだ。ちょっと待ってて」
「消してしまっても、よろしいのでしょうか?」
「海に魔物は出ないし、下の灯りは点いてるから大丈夫」
そう言って青年は魔石ランプの扉を下げた。強い光源がなくなり真っ暗になる。やがて瞳は夜に慣れ。
目を皿にしても収めきれない煌めきが、ジルの視界いっぱいに広がった。
星空は故郷や教会領でも何度も見た。けれどそれは、いつも地上から仰ぎ見るもので。今は手が届くのではないかと思えるような距離で、いくつもの星が瞬いていた。銀砂を散りばめた絵画のような光景に、ため息だけが零れる。
――いつか、エディにも見せてあげられるかな。
弟は今日も寄宿舎で一人、ジルの帰りを待っているのだろう。教会領とガットア領。そこへ海を渡っているとなれば距離はさらに遠くなったけれど、空は繋がっている。
ここに来てまだ一日目なのに。弟離れをしなければと思うのに、どうしても考えてしまう。なにをするにも、二人はいつも一緒だったから。
「月も綺麗だよ」
「え?」
「後ろ。星は隠れちゃうけど」
青年が指をさした方向、背後を振り返れば、月が静かに浮かんでいた。白い光は周囲の星々を呑み込み、黒い海に光の帯を垂らしている。風が立てる波に白い帯ははためき、ざわめく。
その光景は、風の神殿での光柱を想起させた。潮気のある、なまぬるい風が肌に張りつく。じっと見られているような居心地の悪さを感じる。視線を月から引き剥がそうと、ジルは体の向きを。
「君さ、女の子だよね」
変える前に柱へと抑えつけられた。膝立ちになり眺めていたのが状況を更に悪くしていた。ジルの両足は青年がかけた体重によって押さえられている。腰につけた短剣も抜きとられ、手の届かない場所に転がされてしまった。
「最初は、線の細い男の子だなあって思ってたんだ。でもさ」
「っ」
上着のなか、布で覆われていない背中に手を置かれた。ウォーガンやデリックが作っている剣ダコのゴツゴツとした手のひらとは違う。弓で硬くなったルーファスの手とも違う。知らない手。その手がジルの背をなぞる。
「登ってる時に見えちゃったんだよね。ここまで来といて誘ってないとか、言わないよね」
「僕は男です」
気持ち悪い。胸の奥からせり上がってくる感情を抑えて、ジルは声を落とした。親切な人だと、油断していた自分に腹が立った。こんな男のことを、デリックに似ているなんて。
「じゃあ確認してみようか?」
楽しそうな男の手が背中から腰へと動いた。そこへジルは思い切り頭をたたき込んだ。ごんとした鈍い痛みが後頭部に響く。足の押さえが緩んだ。男の首を狙い、自由になった腕を後方へ回しながら体をひねる。その勢いを利用して足を拘束から解放させた。
「調子に乗っ」
「離してください」
後ろに振った腕は掴まれてしまった。それでも問題ない。掴まれていない方の手で、袖内に忍ばせていた投擲用のナイフを男に突き出した。ジルの頭突きは鼻に命中していたようだ。男は苦痛に歪んだ顔の中心を手で覆っている。
物見台は狭い。大立ち回りを演じて男を落下させるわけにはいかない。こんな人間でもファジュルの部下、財産なのだから。
「!」
ナイフはただの脅しだと思ったのか。何を考えたのか男はジルの腕を自身の方に引き寄せた。埒が明かない。このままではお互いの傷が増えるだけだ。
――ロープを掴めばなんとかなる。
腕を引かれて近づいた距離。それを利用して、ジルは男の肩にナイフを軽く突き立てた。掴まれた腕が解放される。男を落下させられないのなら、自分が落ちればいいのだ。
ジルは物見台の足場を蹴った。停泊中の船に帆は張られていない。斜めに伸びたロープへ手を伸ばし。
「ぁ」
指一本分届かなかった。海風のなか自己回復一直線にジルは進んでいく。
自分の傷だけで済めばいいのだけれど。船に穴があいたらどうしようか。修理代はいくらするのだろう。一応、男の傷も手当しなければ。この船に救護員はいるのだろうか。それよりも自分の心配だ。気絶しないように受け身をとらなくては。こんな高さから落ちたことがないから、上手くいくか分からないけれど。
――まだ着かない?
今どのあたりを落ちているのだろうか。ジルは夜空へ向けていた視線を移動させ、固まった。確かに途中、背中に何か当たったなとは思った。
「あ、ありがとう、ございます」
「だから風の」
「うわっ」
ラシードの両腕に受け止められていたジルは、どさりと甲板に落とされた。気を抜いていた分、時間差できた落下の衝撃は思いのほか痛かった。




