146 火花と物見台
対峙した桃色と赤色の瞳。テーブルを挟み微動だにしない二人の間で、火花が弾けた。ような気がした。
ジルの立場は少々ややこしい。正式な主人はセレナに違いないけれど今は神官に扮しているため、表向きは火の大神官のほうが上位だ。だから公にはファジュルの従者という扱いになる。
とはいえ、私的に仕えるつもりはない。ジルはファジュルから離れ体勢を直した。
「僕の主は、女神ソルトゥリス様です。ファジュル大神官様、セレナ神官様。等しく、お二人にお仕えいたします」
その場で頭を下げたとき部屋の扉が叩かれた。ファジュルが許可を出せば、テーブルの上に次々と料理が並べられた。一品ずつ給仕される形式ではないようだ。
「ラシードの席だったね。どこでも適当に座りな」
火の大神官が言及して初めて、護衛騎士は末席に着いた。本来の作法はこれが正しいのだろう。ルーファスから受ける扱いに慣れていたジルは、礼節をわきまえようと心持ちを改めた。
ファジュルやセレナ、ラシードが料理に手を付けたのを確認してからジルも食事を始める。たくさんの豆が煮込まれたスープはスパイスが効いており、ぴりりとした刺激が舌を刺した。
――ちょっとからい、かも。
スープ皿の傍に置かれた丸いパンで緩和をはかる。パンというには固めでポロポロと崩れるけれど、芳ばしくて美味しい。皆は辛くないのだろうかと様子を窺えば、特に反応もなく黙々と食していた。ジルだけが辛く感じているようだ。
食事を残すなんて勿体ないことはできない。パンで辛みを誤魔化しながら食べよう。そう決意したとき、スープとは異なる小さな皿が目に入った。砕いたクッキーのようだけれど、しっとりしている。木の実があえられていることから、これも料理の一つだろう。また辛いのだろうか。スプーンに少しだけ乗せて、そろりと口に含む。
脳に衝撃が走った。沁みこむ刺激にジルの瞼が落ちる。辛かった口のなかは、甘い味でいっぱいになった。蜜を食べているような幸福に頬が緩む。
――これは大事に食べよう。
辛い豆スープの量を睨みながら、ジルは黙々とスプーンを動かした。最後のひと口を飲みきり甘味で口直しをしていると、ファジュルから航行の予定を告げられた。
「着岸は明日の夕刻前だ。それまでは好きにしてな」
「「はい」」
「船を降りてからはアタシの指示に従ってもらうよ」
魔物調査に赴くのだろうか。そうなると、のんびり海を眺めてなどいられないだろう。今のうちに堪能しておかなくては。ファジュルの言葉に頷いてみせれば、紅玉の瞳が艶やかに光った。
◇
「船は初めて?」
「はい」
船長室を出たジルは、さっそく甲板に戻っていた。ぐるりとその場で一回転すれば、帆船は青色に囲まれていた。抜けるような空に、吸い込まれそうな海。生まれては消えていく白い波はひとつとして同じ形にならず、観ていて厭きない。大きくて重そうな帆船が水に浮き、風で進んでいるのは不思議だった。
「上に登ってみる?」
「よろしいのですか?」
「今は潮目が安定してるからね」
手すりから身を乗り出して海を眺めていたジルは、通りかかった青年に注意を受けていた。船から落ちても掬い上げては貰えないよ、と。近くに陸は見えない。自分が泳げるのかも分からないジルは、素直に青年の言葉に従った。
青年はガットア領の出身だろうか。水夫を示す服の短い袖から、ファジュルやラシードと同じ褐色肌の腕が伸びていた。焼けたような赤茶髪に、人好きのする笑顔は。
――デリック様に少し似てるかも。
セレナも船に乗るのは初めてだったようで、ジルと一緒に海を眺めていた。帆を掛けた柱に登ってきても良いかと尋ねれば、心配を浮かべながらも了承してくれた。長剣は邪魔になりそうだったので、二人の近くに置かせてもらう。
「ここに風の大神官様はいない」
「そう、ですね?」
「落ちないように、気を付けてくださいね」
「ありがとうございます。行ってきます」
ルーファスがいないのは当然だ。風の神殿での儀式は終わったのだから。よく分からないままラシードに返したジルは、セレナに一礼して青年についていった。
◇
「そこに足を乗せて。そう、そのまま上に。登りきるまで下は見ないほうがいいよ」
「分かりました」
ハシゴ状に編まれたロープの足場は不安定だった。さらに上へと進むにつれて風が強くなる。手や足を滑らせたときに対処できるよう、青年はジルの後ろから登ってくれていた。忠告に従い上だけを見て進めば、人が立てそうな足場に行きついた。
「すごい、鳥になったみたい……!」
物見台と呼ばれるそこは、空を飛んでいるようだった。全身に風を受けて髪や服がはためく。太陽はいつもより近くに感じ、より眩しさを覚えた。下へと視線を移せば、セレナがこちらを見上げていた。
――花が咲いてるみたい。
淡黄色の布がひらひらと海風で踊っている。心配はいらないと気持ちを込めて手を振ってみれば、セレナも振り返してくれた。
「怖くない?」
「大丈夫です。お誘いくださり、ありがとうございました」
風の神殿では底が見えない石橋を渡ったのだ。ここは着地点が見えているから、予想や対策が立てられる。
遅れて物見台に登ってきた青年へジルはお辞儀した。市中で吹いていた風とは異なる香り。ガラス細工のような海に描かれる帆船の白い尾。初めての眺めに緩んだ頬が戻らない。もう少しここに居てもいいだろうか。ジルがそう確認すれば、青年は快く受け合ってくれた。
「ここからの景色は夜も格別だよ」




