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傾界の聖女  作者: たま露
【火の領地 編】
145/318

144 帆船と着替え

 港に到着した聖女一行は、張り切った使用人たちにより帆船へと積み込まれた。


「どうしてジルがいるんだい?」


 開口一番、甲板で待ち構えていたファジュルに入れ替わりを指摘された。わけではないと思うけれど。


「以前は、従卒に預かっていました。従者のエディ・ハワード、と申します。ジルは、僕の姉です」


 ジルは右手の甲を額にあて、敢えて騎士の敬礼をしてみせた。表情は無を意識して声の抑揚も抑えた。ジルではないと宣言すれば、黒子を飾ったファジュルの口元が上がった。豊かな胸元を支えるように組んでいた腕が解かれ、高いヒールがコツコツと甲板を鳴らす。


「へぇ、よく似たもんだね」


 褐色のしなやかな指先に顎を掬われた。関心を示すかすれ気味の声に、真贋を見極めるような紅玉の瞳。ジルは顔を右へ左へと振らされた。暑さによるものとは違う汗が、ついと背中に流れる。


「お姉さんには教会領でお会いしたんですけど、本当にそっくりでした!」


 そこへ風が吹いた。燦々と降り注ぐ陽光のしたで、楽しそうに笑ったセレナがお辞儀する。そのまま自己紹介を済ませれば、ファジュルの関心は移動した。


 妖艶な体を包んだ紅い衣装の裾が広がる。ファジュルは右手を体に添え、片足を後方へ引いた。


「ラバン商会の会頭を務めております、ファジュル・ラバンと申します。ご所望の品をお探し致します。ご用命はどうぞ(わたくし)どもに」


 恭しく男性貴族の礼をとったのは営業だからだろう。姿勢を戻したファジュルは肩に掛かっていた亜麻色の髪を払いのけ、再び口角をあげた。


「あんたも面倒なもんを押し付けられたね。教会からは謝礼のひとつもないが、悪いようにはしないよ」


 火の大神官なんて面倒だ。聖女の世話をするのに教会は報酬を寄こさない。だからセレナで稼がせて貰う。挨拶の裏で、そんな言葉が聞こえた気がした。


「錨を上げな! 出航するよ!」


 ファジュルが声を張り上げれば、いくつもの勇ましい声が呼応した。三本の大きな柱に張られた帆が風を受けてふくらむ。足元がぐらりと揺れて船は動き出した。甲板は平らで硬いのに、ゆらゆらしているのは不思議な感覚だ。


 ――海だ! 海で船に乗ってる! エディも一緒ならもっと楽しいのに。


 ワクワクした高揚感と、エディのいない残念感。初めて見る景色と経験に、ジルの胸中は忙しなかった。もう少し手すりに寄って近くで海を見たい。けれど従者として、ジルは勝手に移動するわけにはいかない。好奇心をぐっと抑え込んで無表情を保っていると、水夫に指示を出していたファジュルが振り返った。


「あんた達は着替えておいで。ここでそんな恰好してたら倒れちまうよ」

「お気遣いありがとうございます。でも、この服しか持っていなく、て?」


 困ったように微笑んだセレナに、一人の使用人が近づいてきた。目の前で一礼したと思ったら、くるりとセレナの体を回転させた。そのまま背を押してセレナをどこかへと連れて行く。使用人の鮮やかな手際に感心していたジルも、気が付けば背中に手を置かれていた。


「僕はこのままで」

「さあ、参りましょう」

「会頭、護衛の騎士様は宜しいのですか?」

「あっちの辛気くさいのは放っとおきな。強化魔法でもかけてるさ」

「え。わっ、とと」


 背を押す使用人と押し競べをしていたジルは、ファジュルと別の使用人との会話に驚いた。その拍子に押し負け足を動かしてしまった。ずずずと甲板を滑りながらジルは顔だけをラシードに向ける。首、腕、足。しっかりと騎士服に覆われているのに、涼しい顔をしていたのは。


 ――ずるい。


 強化魔法に気温調節の効果があるなんて知らなかった。思わずジト目になってしまう。護衛に就くのだろう。朱殷色の瞳はジルを一瞥して、セレナと使用人を追って行った。


 着替えとは言っても、まさか身ぐるみ剝がされるわけではないだろう。諦めたジルも甲板から船底へと続く階段を降りる。船内は二つの階層に分かれており、一番下の階には水や食料などの生活物資、交易品を積み込んでいるのだと使用人は話してくれた。


「従者様はこちらへ」


 示された船室の隣にはラシードがいた。扉の傍で控えていることから、隣室にはセレナが居るようだ。主人を待たせる従者などありえない。ジルもセレナの退出に控えるため、素早く着替えを済ませようと扉に手を掛ける。


「……です! 自分で……」


 隣室からセレナの声が漏れてきた。抵抗するような声音だけれど緊迫感はない。セレナの様子は気になるけれど、軽々しく踏み込むのも憚られる。なにより、近くで室内の気配を探れる護衛騎士が動かないのだ。無体を、という恐れはないだろう。


 ――早く済ませよう。

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