143 乾季と港
「あつい」
「暑いですね」
ジルとセレナの第一声。じっと立っているだけでも、じわじわと体温が上昇していくのを感じる。どうやら服装を間違えたようだ。生地の厚いケープコートをパタパタと揺らし風を起こす。ラシードはどうなのだろうと窺えば、いつもの無表情だった。黒い騎士服を着込んでいるのに涼しい顔をしている。ジルとは鍛え方が違うということか。
――なにか負けた気がする。
聖女一行は火の聖堂に転移してきた。ひんやりとしたリシネロ大聖堂から一瞬で移動したため、体が慣れていないのだろう。太陽はまだ昇ったばかりなのに、まるで茹でられているようだ。夢では気温や匂いまでは分からない。見立てが甘かったとジルは内省した。
「どこに行けばいいのかな?」
先導役となる火の大神官、ファジュルはこの場にいない。仕事が忙しく教会領まで迎えに行けないから、勝手に移動してこい。といった旨の書簡が教皇の近侍宛てに届いていたそうだ。
地上を進む経路と、転移陣を使用する経路。二つの移動方法のうち、セレナは転移を選んだ。経路によってイベントに変化があるのかといえば、そこは否だ。地上を進む利点は戦闘熟練度上げの一点のみ。護衛騎士と親密になりたい時に選ぶくらいだ。
――ゲームの通りならここで使用人さんに拉致、じゃない、案内してくれるはず。
まずは転移陣の間を出ようと、ジルはセレナに移動を促し扉を開いた。
石壁の無機質だった視界にぶわりと華が咲く。一輪ではない。薄紅の衣をまとった女性が何人も廊下に並んでいた。知っていたけれど、その光景は壮観だった。楚々といった様子で視線を下げているけれど、妙なやる気を感じる。
最初にジル、次いでラシードが廊下に出た。最後に浅縹色の法衣を着たセレナが恐る恐るといった足取りで扉をくぐれば、一番近くにいた使用人がすいと前に出てくる。
「セレナ神官様、並びに護衛の騎士様と従者様でございますね」
「は、はい」
「お待ち申し上げておりました。会頭のファジュル・ラバンより、皆様をご案内するよう仰せつかりました」
「えっ、あの、ど、どこに行……!」
薄紅の波に浚われて、セレナの声はだんだんと小さくなっていった。危険はないと判断したのか、護衛騎士は止めるでもなく後を追っている。と、いつまでも眺めていてはいけない。ひらひらとした衣装を追ってジルは足を踏み出した。
◇
ガットア領、別名火の領地と呼ばれるここは一言でいうなら、暑い。雨季と呼ばれる時期なら朝晩は涼しいらしいけれど、残念ながら今は乾季だ。張りつく湿気が熱を籠らせていた。
その熱をはらうように、ふわりふわりと大きな扇が上下を繰り返している。馬車に似て非なるこの乗り物の頭上には日差しよけの天幕が、壁のない側面には風を通す紗幕が垂れていた。
この地でもラシードは一人騎乗して、周囲の警護に当たっている。陽射しを遮るものは何もない。大丈夫だろうかと後方へちらりと視線を向ければ、褐色の肌には汗ひとつ浮いていなかった。
馬車は赤茶けた道を進んでいく。周囲の建物も似たような砂色をしており、植わった樹々の緑がよく映えている。
火の聖堂を出発してどのくらい経っただろうか。朝から活気づいた通りには様々な人が行き交っていた。使用人と同じような衣装を着た女性、軽装よりもさらに薄着な男性。上着を手にした人は他領から来たのだろうか。しきりに汗を拭いている。
「ファジュル様がいっらしゃるところへ、行くんですよね?」
ジルの隣で流れていく景色を確認していたセレナが、不安そうに口を開いた。聖堂にいたことを思えば、使用人たちがファジュルの遣いであることは間違いない。けれど、知らない土地でただ運ばれてゆくだけというのは確かに心許ない。
目的地はファジュルの商会本拠地、兼私邸だ。夢ではガットア領に到着したその日の夜、セレナは宴に駆り出されていた。大きな商談が締結されたとのことで、その祝いに華を添えろという指示だった。
馬車をすっぽりと覆うほどの影に入ったとき、微笑んだ使用人が頷いた。
「はい。ただいま港へと向かっております」
「みなと?!」
日陰を作っていた大きな門の先には、青空にも負けない大きな海が広がっていた。太陽に反射してキラキラと輝く海面はステンドグラスのようだ。ゆるやかな下り坂の終着点には、大小様々な帆船が停泊している。
「どうしたのエディ君?」
「港は、予想外だったものですから……失礼いたしました」
ガットア領開始早々、夢とは異なる行き先に驚いたジルは思わず声を上げてしまった。ジルはセレナへ、そのことを暗に伝えた。上手く伝わったのだろう。桃色の瞳からかげりが消えた。
「港に魔物がでるのかな?」
「港や海上での被害は報告されておりません。皆様には、ラバン会頭とともにご乗船いただきます」
誰ともなく呟いたセレナに、またしても使用人から予想外の言葉が飛び出した。
ゲームで帆船に乗る場面は無かった。本筋以外ではあったのかもしれないけれど、ジルの記憶には残っていない。ファジュルにどんな思惑があるのか分からない。それでも。
――海は楽しみ!




