139 反動と学習
セレナやラシードと別れたジルは、北方騎士棟へと向かっていた。初めは一人で行くつもりだったけれど、当然のようにエディも付いてきた。
姉さんを嫌いになるわけがない。その言葉でジルの心は満たされたのだけれど、弟はまだ悔いているのだろうか。飛び出していった反動のようにくっついて離れない。
初めはつる草のようにジルの腕に絡まっていた。それでは歩きづらいため、今は二人で手を繋いでいる。
――反抗期、終わったのかな。
ジルが成人を迎えたときは、エディの方から離れたがっていたのに。そう隣を見遣れば、長く伸びた銀髪は薄闇に染まりはじめていた。金色の太陽は地に沈み、空には濃紺色の夜が流れ込んでいる。
ふと、リングーシー領の花祭りで迷子になっていた男の子を思い出した。弟と同じ驚きかたをするあの子は、無事捜し人に逢えたのだろうか。もし迎えがなかったら、もし一人で泣いていたら。話したのはあの一度だけ、共に過ごしたのは一時間にも満たない。それなのに、ジルの胸には焦燥感が広がっていく。
「どうしたの?」
いつの間にかジルは足を止めていたらしい。繋いだ手の先、半歩前にいるエディが首を傾げていた。迷子の件は入れ替わりと関係ない。わざわざ心配の種を増やす必要はないだろう。ジルは誤魔化すために、今はどこを歩いているのだろうかと周囲を確認する。高い塀と石敷きの広い空間、演習場が目に入った。
「たった三ヶ月なのに、懐かしいなって」
「僕はまだ、むかむかする」
「あと九ヶ月だから! そうしたらまた従卒に戻れるから、ね」
執務室でだまし討ちされたのを思い出したのだろう。エディがジト目になった。機嫌の悪くなった弟を宥めるため頭を撫でていると、バタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。
「「うわっ」」
「本物!? やっと逢えた!!」
賑やかな声と共にジルとエディは閉じ込められてしまった。鍛え上げられた両腕が、二人の体にひしとくっついている。それから夢や幻ではないかと確かめるように、弟は頭や腕をパタパタと触られていた。顔には出ていないけれど、エディは若干迷惑そうだ。
弟の恰好をしているジルは元専属として、興奮冷めやらない上役に騎士の礼をとる。
「エディ・ハワード、一時帰還いたしました」
「実戦経験もねぇのに、よく頑張ったな。えらいぞエディ!」
エディとデリックは三ヶ月振りの再会だ。弟は今、神殿騎士団の所属から外れているけれど、デリックはジルの頭をわしゃわしゃと撫でて労ってくれた。人好きのする笑顔は変わっておらず、まとう空気は明るい。そこに、そわそわとした気配が混ざっている。
――最後にデリック様と会ったのは、いつだったかな。
長らく顔を合わせていなかった気がする。忙しなく過ぎた日々を順にさかのぼれば、デリックの記憶と答え合わせができた。
「一年振りだな、ジル」
「ご無沙汰しております。神殿騎士団では、弟がお世話になっていました」
姉の恰好をしているエディは神官見習いとして、軽く腰を折り草礼していた。ジルらしくなるよう唇には笑みを刷いている。
「副隊長になったらめちゃくちゃ業務が増えてさ。ジルに逢えない、エディも異動するわでオレ呪われんのかと思ったよ」
対面したデリックの頬は緩んでおり、にこにこと嬉しそうだ。久々の再会を喜んでくれているのだろうけれど。
――落ち着かない。すごく。
デリックの気にあてられたのかもしれない。ジルは二度、目の前にいる騎士から婚姻を申し込まれている。断りの返事をしたのに、弟には良くしてくれ、ジルにも嫌な顔ひとつみせない。自分に扮したエディへ向ける深緑の瞳は、生き生きと輝いており。
「姉さん、時間が」
接する機会が多いほど入れ替わりは露呈しやすくなる。そのことを学習したジルは、神官見習いの袖を引いた。エディも会話を続けたくないのだろう。ジルに頷いたあと、辞去の挨拶を告げるため顔を戻、さずに留まった。その場でパチパチと瞬きを繰り返している。
「どうしたエディ、風邪でも引いてるのか?」
「え?」
体の弱かった弟とは対称的に、ジルは一度も風邪を引いたことがない。もちろん熱を出して寝込むなんて経験もなかった。だから今、頬があたたかいのは。
「少し、疲れが出ただけっ、歩けます! 大丈夫ですから、下ろしてください……!」
「部下の体調管理もオレの仕事だからな。ハワード団長のところへ行くんだろ?」
横抱きではなく、肩に担がれているのがせめてもの救いだろうか。手足を動かして抵抗してみたけれど、腰に回った腕はがっちりと固定されており外れない。エディからも止めるよう言ってくれないかと、ジルはデリックの背中越しに念を送ったけれど。
「……はい。お手数を、お掛けします」
諦観まじりの肯いが返ってきただけだった。斯くしてジルは人攫いに遭ったがごとく、デリックに運ばれることとなった。




