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傾界の聖女  作者: たま露
【風の領地 編】
135/318

134 湯気と不出来

 今日も一泊し、翌日ここを出立する。風の聖堂に戻り次第、教会領へ転移するとルーファスから説明を受けた。


「あの、明日まで我慢すれば」

「総意だ」


 ジルの制止は一声のもとに退けられた。教会の外に設置された大鍋には、大量の水が張られていた。そこへラシードの火魔法が放たれる。


「ラシード様がいらっしゃったら、お料理も湯浴みもすぐできますね」


 視界の先でぐらぐらとお湯が沸いた。夜空の下、白い湯気がほかほかと立ちのぼっている。驚きと喜びに、セレナの瞳はキラキラと輝いていた。


 教会領の寄宿舎では毎日体を清めていたけれど、昨日は拭いてさえいない。正直ジルも、とても嬉しい。けれど魔法をこんなことに使ってもいいのだろうか。そう神官に視線を移せば、緑色の瞳は微笑んでいた。


「神殿騎士団の遠征では、よく行われています」


 ジルは隣のラシードへ空を切る勢いで顔を向けた。真偽を問うようにじっと見上げれば、無感動な瞳が見下ろしてきた。


「戦場では一分一秒が惜しまれる」

「お湯が冷めないうちに、セレナ神官からお使いください」

「ありがとうございます!」


 引っ掛かりを覚えたものの、騎士の言い分はもっとものように聞こえた。ジルの頭が固いのだろうか。そもそも自分は教会を欺いていた。それに比べれば、魔法でお湯を沸かすくらい些末事だ。八年の間に培われた思想はなかなか抜けないらしい。


 ジルが思考を迷走させている横で、風の大神官と護衛騎士はお湯を屋内に運び込んでいた。


 ◇


「傷をみせて、いただけないでしょうか」

「薬は塗り直しましたよ?」


 湯を使い終えた四人はそれぞれの部屋に入っていた。


 ジルを快く招き入れてくれたセレナが、どうしたのかと首を傾げている。部屋の扉を閉めたジルは頬にかかった淡紅の金髪をそっとよけ、細い切創に指先を添えた。


「あ、あの」

「すぐに終わります」


 急に手が伸びてきたから驚いたのだろう。セレナを安心させるためにジルは微笑み、魔力の制御を緩めた。溢れた淡い光は立ちどころにセレナの傷を覆い消滅した。ジルのケガは完治していたから、あらかじめ自室で指先を切っていた。


「セレナ神官様の傷も、治りました」


 聖女の御印が現れる前は農園を手伝っていただろうに。セレナの肌はリンゴの花のように白い。愛らしい顔にキズは残らなかった。その結果に胸を撫で下ろしたジルは、セレナの頬から手を離した。


「ジルさんは、教会領の神官見習いさんでしたね」


 状況の把握に努めていたセレナの顔が、得心したとばかりに緩んだ。リッサの町でジルはセレナに聖魔法のことを。


「申し訳ございません! 私、自己回復のことしかお伝えしていませんでした!」


 言葉足らずだったとジルは頭を下げた。何をされるのかと不安だったに違いない。通常、聖魔法で自己回復はできない。だから別の属性だと思われていても不思議はなかった。


「私の勉強不足ですから、そんなに謝らないでください」

「セレナ神官様は不勉強ではありません。私が不出来なのです」


 才能の無い自分は、つい最近まで他者を癒せなかったのだとジルは説明した。それを聞いたセレナは視線を上に向け、指先を頬に当てている。ややあって、花のような唇から思いも寄らない言葉が飛び出した。


「それって、すごい事なんじゃないですか?」

「すごい?」

「自己回復が使えるのは、ジルさんだけなんですよね?」

「恐らく今は、ですけれど」


 リシネロ大聖堂の書庫で教皇は、同じ能力を持った人が『いた』と話した。


「生界で一人だけなら、それは不出来じゃなくて特別です!」


 両の拳をぎゅっと握ったセレナは、至極真面目な顔をしていた。水蜜の瞳はぴたりとジルに据えられおり、揶揄われている雰囲気は感じない。何よりもセレナが、そんなことをするような娘ではないとジルは知っている。


 特別というのが、どんなものか分からない。それが、不出来ではないという証明にもならない。


 ――それでも。


「ありがとうございます。セレナ神官様」


 励まそうとしてくれたセレナの気持ちが、とても嬉しかった。やさしい想いに、ほわりと胸があたたかくなる。ゆるんだ心のままにジルは顔を綻ばせた。


 直後、セレナの顔がぐいと近づいてきた。妙な気迫を感じてジルの足は半歩下がった。


「ジルさん、エディ君って笑わないんですか?」

「は、はい。表情はあまり動きません」


 これまでの話題とはまったく異なる質問に疑問符が浮いた。隠すような事柄ではないため、ジルは素直に答えたけれど。


「もったいない」


 身を引いたセレナはジルから視線を外し、それだと他の人が、でももっと、などと口元に手を当て呟いていた。それから何か決心したように頷き、再び桃色の瞳がジルを映した。


「私に任せてください!」


 ――なにをだろう。


 そう思ったけれど、セレナの勢いに押され頷くことしかできなかった。結局なにを任せるのか問えないまま、ジルは就寝の挨拶を告げて退出した。

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