131 花見と管理小屋
ルーファスは部屋の前までジルを送ってくれた。就寝の挨拶を交わし、明るい室内に入る。
――待っててくれたのかな。
ジルを迎えてくれたのは、寝台ですやすやと眠ったセレナだった。ジルが見回りに行ったあとも、きっと考えてくれていたのだろう。夜更けに起こしてしまうのは申し訳ない。それにここは、セレナの自室だ。
―― 一階の長椅子を借りよう。
羽織っていたケープコートを脱ぎ、音を立てないよう軽くはたく。上掛け代わりにセレナへ被せたら、魔石ランプを消してジルは再び廊下に出た。
玄関の傍には長椅子と小さな丸テーブルがあった。普段の来客対応はここで行っているのだろう。ジルは座面に体を横たえた。
暗闇のなか一人になれば、疲れが押し寄せてきた。
◇
名前を呼ばれている。
はぐれた子が親を、愛する人を探すような声。おいて行かないで、どこにいるのと泣いている。
ここにいるよ。そう言いたいのに、みえない壁が邪魔をして、言葉は音にならなかった。
体のあちらこちらが痛い。けれどすぐに治る。それをずっと、繰り返している。
やがて、名前を呼ぶ声は聞こえなくなった。
どこにいるの。探したいのに、みえない壁が邪魔をして、ここから一歩も動けない。
哀しい、苦しい、ここから出して。泣いて啼いて哭いて。治らない心は、砕け散った。
◇
「起きろ」
頭上から降ってきた低音にジルは跳ね起きた。視界はほんのりと明るい。声の方向、長椅子の前には大剣を背負ったラシードが立っていた。
「おはよう、ございます」
挨拶をしたあと、濡れていた目元を袖で拭った。自分はまた嫌な夢をみていたようだ。最近はみていなかったのに。セレナの家族に会って、エディに逢いたくなったからだろうか。
ジルは長椅子から立ち上がり、ラシードの言葉を待った。しかし一言発したきりで頭上の口は開かない。動かない顔はそのまま向きだけを変えて、玄関を出ていってしまった。
――素振りをするから、教えてくれたのかな。
丸テーブルに置いていた長剣を掴み、ジルは護衛騎士の背中を追った。
◇
花見の時間はとても和やかだった。花を観るというよりは、農園での日常を過ごしているようだったけれど。
セレナと家族は、リンゴの白い花を摘みとっていた。ジル達がここに来た時にも行っていた作業だ。たくさん咲いた花のなかで、大きいものだけを残す。そうすることで、樹の消耗を抑えるそうだ。
その様子をジルとルーファス、ラシードは離れた場所から見守っていた。やがて出発の時刻となり、今は馬上の人だ。
「お昼が、楽しみです」
「使ったのはジャムだけど、リンゴパイもあるんだよ」
ジルはルーファスの後ろに、セレナはラシードの前に座っていた。家族の姿が見えなくなるまで、馬はゆっくりと歩かせていた。手を振り終えたセレナは進行方向に顔を向けた。
ルーファスが手綱を握る馬には、一つのバスケットが括られている。植物のツルを編んで作られたカゴには、昼食が入っていた。早朝、ジルが日課から戻るとセレナと母親は台所に立っていた。
「寝台のお詫びに、エディ君には一番大きいのをあげるね」
「ありがとうございます。頂戴します」
遠慮しようと開いた口は、違う言葉を紡いでいた。お詫びだというセレナの想いを跳ね付けたくない。それに、菓子は嬉しい。
リッサの町を出たらいよいよ、風の神殿を目指して進む。神殿の手前には小さな教会があり、そこで一泊する日程だ。
◇
馬を駆って四日。道中、それなりの間隔で魔物と遭遇したけれど、なにも問題は起きなかった。
太陽が傾きはじめたころ道幅が狭くなった。山道に入ったのだ。緑豊かだった景色に、鈍色の岩肌が加わった。馬を進める程に岩の背丈は伸び、今や聖女一行は断崖に挟まれていた。
本日の宿は、その断崖のくぼみあった。小さな教会というよりも管理小屋といった佇まいだ。実際、ここに司教や神官は常駐していない。月に一度行う、神殿の点検に利用されているのだ。
「普段は暴風で近づけないため、遠くから視るだけですけれど」
荷解きをしながらルーファスは説明を続けた。屋内は整頓されており綺麗だ。教会というだけあって、小さな祭壇もあった。井戸があるため水の心配はないけれど、浴室はない。寝室は二階で部屋数は足りている。
「神殿が近いのに、ここは風が強くないんですね」
窓の外では、夕陽に照らされた断崖が濃い影を落としていた。近くで暴風が渦巻いているのなら、吹き返しの風があってもおかしくない。けれど道中も強風とはいえない、どちらかといえば穏かな風が流れているだけだった。
「正確なことは分かっていませんけれど、立地も大きいかと」
「立地?」
「答えは明日、セレナ神官の目でご覧ください」
不思議そうに首を傾げたセレナへ、ルーファスは笑みを返した。それから夕食を摂った四人は明日の儀式に備えて、早めに部屋へと入った。




