130 誓いと呪い
――いまさら、何を気にしてたんだろう。
ジルは弟に成り代わると決めた時から。否、教会領で暮らし始めてからずっと、嘘をついてきた。誠実さなんて、初めから持ち合わせていなかった。
家の周囲を確認したジルは、見回りの範囲をリンゴ園に広げた。寝静まった町では星の瞬きさえ聞こえてきそうだ。そこへ時折り、葉のささめきが交ざり通り過ぎていく。
ここリッサの町を襲った魔物、ラームティオはもういない。けれど夢の通りではない。懸念の拭えないジルは魔物の気配、異変の兆候はないかと警戒していた。
だから、すぐに気が付いた。
「起こして、しまったでしょうか?」
「いいえ。眠っていませんでした」
ジルの後方に、神官服をまとったルーファスが立っていた。樹々は夜に浸り、白い花だけが浮かび上がっている。心配して追って来たのだろう。ジルはほのかな香りをくぐり、風の大神官に近づいた。
姿勢を決めてしまえば、表情は自ずと落ち着いた。
「ルーファス」
ジルの呼び掛けに息を呑んだのが分かった。一拍置いて応答したルーファスは、続きの言葉を待っている。星灯りのした、ジルは前を見据える。
「誓いに、偽りはありませんか」
「一欠片も」
「教会に、背くことになっても?」
夜に沈んだ草の絨毯。その上に跪いたルーファスは、穏やかな笑みを浮かべた。
「お傍に在れるなら」
万緑の瞳は、夜露に煌めいていた。その瞳の上。かしずいたルーファスへ、ジルは手を伸ばす。ふわふわとした、やわらかな前髪をはらい。
「ルーファス・リンデン、私を支えてください」
寄せてくれた想いに、ジルは呪いをかけた。
額に落とした唇を離し、ルーファスへ微笑む。額から頬へ。輪郭を確かめるように手をすべらせれば、すくい取られた。
万緑の双眸がやわらかに細められる。絡まっていた視線は、ゆるやかに解けた。
「仰せのままに」
手の甲にルーファスの唇が触れた。すでに他の場所にも誓われている。今は再確認しているだけだ。ジルはただ、その行為を静かに眺めていた。
花の香りを連れた葉のささめきが、二人の間を通り過ぎていった。
◇
ジルはルーファスと共に見回りを再開した。自分から仕掛けたとはいえ緊張が解ければ、慣れない気恥ずかしさが顔を覗かせた。少し後ろを歩くルーファスに、ジルは声だけを向けていた。
「魔王が封印された場所、ですか」
「聖女様の祭壇と、関りがあったりするのでしょうか?」
「創世記では、女神に地を追われたとされていますけれど」
「地にいないなら……空や海?」
「地底という見方もできます」
史上最年少で神官試験に合格したルーファスでも、知らないことはあるらしい。敬虔な大神官にさえ開示されていない情報。それをジル一人で従者をしながら集めるのは、困難を極めただろう。
ジルはルーファスに、すべては話さなかった。
従者をしているのは、体の弱い弟が心配だったため。自己回復があるので戦闘は問題ない。セレナを聖女の役目から解放したい。魔王クノスを討伐できれば、魔素浄化など必要なくなるのではないか。
情報を整理しながら話すジルの言葉を、ルーファスはただ黙って聴いてくれた。
「……禁書」
不意に背後でぽつりと声が落ちた。目だけで窺えば、ルーファスは顎に指をあて考え込んでいた。ジルの視線に気が付いたのだろう。眉尻を下げた微笑みが返ってきた。
「こちらでの儀式が終わり次第、調べてみます」
「ありがとうございます」
リンゴ園から出て、今は農道を歩いていた。日中に通った道を辿りセレナの家へと向かう。玄関が見えたころ、砂利を踏む足音がひとつ減った。周囲に不審な気配はない。どうしたのかと振り返れば、憂うような眼差しとかち合った。
「この行いに、貴女の幸せは含まれていますか?」
「もちろんです」
ルーファスの問いにジルは即答した。エディを護れる。ウォーガンや領民が、魔物の危険に晒されることもなくなる。セレナは聖女をしなくてすむ。良いこと尽くめだ。
「たとえ、含まれていなかったとしても」
距離を詰めた足の下で、ざりっと砂が音を立てた。ジルに刺さって離れない視線。その出処であるやさしい顔を両手で包みこみ、抜けないように固定する。
「ルーファスは、傍にいてくれるのですよね?」
唇に笑みを刷き、ジルは小首を傾げてみせた。見上げた先にある瞳がパチパチと瞬く。そのあと、飴色の眉は困ったとばかりに垂れた。緑葉の目を細めたルーファスは、諦観まじりの肯定をくれた。
風、火、水、土。四つの神殿を巡ることで、聖女の世代交代は行われる。最後に向かう土の神殿の扉がひらかれるのは繊ノ月末日だ。今は五ノ月だから、残り九ヶ月。それまでに魔王の情報を集め、倒さなくてはいけない。
――利用できるものは使わないと。




