128 約束と生贄
「分かりました。ご期待に沿えるよう、頑張ります」
「やったー! 遊ぶの、やくそく!」
神妙な面持ちで、じっと会話を聞いていた妹の顔に花が咲いた。湧き上がる喜びにぴょんと体を跳ねさせ、ジルに小指を差し出してきた。
「うん。約束」
ジルが小指を絡ませれば、愛らしい笑顔はいっそう輝いた。その瞳には一点の曇りもない。澄んだ未来に向けられている。
二人で指切りをしていると、セレナが寝台から立ち上がった。
「お姉ちゃん、カレシさんとお話があるから。先に寝てていいよ」
「わかったー」
妹の頭を撫でるセレナの目元は、とてもやわらかい。その瞳にジルが映ったとき、影が差した。
◇
整えられた寝台。物書き机の上には、角が擦り切れた書物に紙とペン。可愛らしい小物入れが置かれたキャビネットには、花のない花瓶が佇んでいた。
「ソフィーに付き合ってくれて、ありがとう」
舞台を降りたセレナは、自室の扉を背に微笑んでいた。水蜜の瞳はジルを、前を真っ直ぐに見ている。その顔が、下を向いた。
「嘘つきにしちゃって、ごめんなさい」
「主人に尽くすのが、従者の務めです」
セレナの声、表情、仕草すべてに、ジルへの申し訳なさが滲んでいた。名前、姿、身分。ジルはすべてを偽っている。そこに一つ、二つ、嘘が追加されただけのことだ。
リンゴ園へ向かうセレナの足が弾んでいたのは、家族に逢えるのが嬉しかったから。食卓でセレナの表情が明るかったのは、母親と父親を心配させないため。妹とジルの約束を止めなかったのは、きっとまだ。
「お嫌ですか? 聖女となるのは」
目を伏せたセレナの表情が強張った。体の前で手を握り、唇を固く結んでいる。
ヒロインの故郷は魔物に襲われた。この事件で魔素浄化の重要性を、喪うことへの恐怖を強く刻む。自分と同じ想いをして欲しくない。その一心で、ヒロインは聖女としての意識を高めるのだ。
しかしまだ、セレナの故郷は魔物に襲われていない。家族も町も、みんな無事だ。
「嫌とか……考えちゃ、ダメなんじゃないかな」
唇のすき間から零れ出た言葉は、ジルの問い掛けを肯定していた。
ソルトゥリス教会の教えは社会軌範だ。朝目覚めてから夜眠るまで共にある。聖女が魔素を浄化するのは当たり前のこと。聖女は女神だから大切にされて、一番安全なところで暮らしている。これまでのジルは、そう認識していた。
「それでは、御印が現れる前の夢を……お尋ねしても?」
二人の間に無音が落ちた。セレナの目は下を向き、固着したように動かない。その視界に入るため、ジルは膝をついた。花びらのような髪の下で、水蜜の瞳が大きく揺れる。
「セレナさんには、幸せになっていただきたいと、思っています」
崇拝を押し付けられ、保護という名の籠に入れられる。生界の営みを護っているのに、自身はその当たり前を享受できない。老いない体から解放されるには、病に罹るほかない。
――聖女は生贄だ。
見上げていたジルの頬で水滴が跳ねた。雨というには少ない。春の露がすべり落ちたのだろう。
「どう、して……わたしなの、かな」
選ばれた理由はゲームでも明示されていなかった。きっと理由など無い。それはつまり、誰でもよかったということだ。そう、殺されていた弟のように。
――セレナ神官様である必要はない。
十六歳になるまで平穏な町で暮らし、やさしい家族に囲まれて育ったのだ。今から聖女だと言われて、すぐに受け入れられるはずがない。
立ち上がったジルは、力ないセレナを擁いた。弟へするように、頭の天辺から首元に沿って髪を撫でる。
「あなた一人が、背負う必要はありません」
驚きに止まっていたセレナの呼吸は、徐々に嗚咽となり動きだした。
考えてはいけない、声にしてはいけない。けれど零れ落ちてしまう。農園を継ぎたかった。両親のような家庭を築きたかった。散らばった言の葉をかき集めるように、セレナの肩は何度も震えた。
「背負わなくてもいい方法を、探します」
花散らしの雨が止むまで、ジルは傍についていた。目元の赤いセレナを妹の部屋には返せない。昔、ジルが義父からして貰ったように、セレナが落ち着くまで背中をさすっていた。
「……めに、……た、の……?」
これまでのような、涙にぬれた声ではなかった。けれど、溢れる感情に震えていた喉はかすれ気味で、正確には聞き取れなかった。セレナの背に回していた腕を解き、ジルは耳を傾ける。
「申し訳ございません。もう一度、よろしいでしょうか?」
「私のためにエディ君……ううん。ジルさんは、従者になったんですか?」
――えっ!? なんっ!?
声のみならず心臓が飛び出すところだった。抑えつけた反動で思わず手に力が入ってしまった。動揺を堪えた手は、まるでセレナの腕に張り付いたようで上手く動かせない。
ルーファスとはすでに教会領で遇っていた。だから行動の端々に、ジルだと思わせる何かがあったのだろうと考えていた。しかしセレナは違う。ジルは初対面の時からずっと、エディとして振舞っていた。
「姉は教会領で、神官見習いをしています」
「エディ君は弟だから、男の子じゃないの?」




