126 色香と特訓
耳が心臓になったようだ。書庫の時はくすぐったいだけだったのに。また食べられてはいけない。クレイグから隠すように、ジルは耳に手を被せた。
眼下にある夕陽の瞳は、朝陽にも負けない光を宿していた。仄明るい室内で、金糸の髪が艶やかに輝いている。ジルに突き飛ばされたというのに。クレイグは寝台の上で、とても楽しそうに笑んでいた。
「覚えた?」
「知りません!」
跳ねる脈を誤魔化すように声を張り、ジルは眉を吊り上げた。戦慄こうとする唇を、強く引き結ぶ。耳には何もつけていない。それなのに何かが主張している。
「調理場に行ってきます」
一度、部屋を出て呼吸を落ち着けよう。クレイグのお腹が減っているのなら、食べ物を分けて貰おう。扉を目指してジルは踵を返した。
「ダメ」
踏み出しかけた足が、同じ床を踏む。服を掴まれてしまった。肩越しに振り返れば、先ほどまで上機嫌だったクレイグは口を尖らせていた。
「その顔で歩かないで」
自分は今そんなにひどい顔をしているのだろうか。無表情をできるだけ意識しているけれど、体温は操れない。待機、移動の是非は別として、服を掴まれたままでは不便だ。ひとまず手を離して貰おう。そう開きかけたジルの口から、音は出なかった。
「ここにいて」
乱れた髪のした、整った唇が甘えるような音を紡いだ。見上げてくる左目は、融けたチョコレートに似ており。
むせ返るような色香に、胸が詰まった。弟が姉に、そんな眼差しを向けるだろうか。少なくともジルはエディから、一度もそのような視線を感じたことは無い。
もしや土の大神官もルーファスと同じ。ジルの認識が、上書きをはじめる。
「二日間のお約束は、果たしました」
ジルは無理やり服を引っ張りクレイグの手から逃れた。思い違いならいい。感情を削ぎ落し、無を意識する。
「イヤリングを着けて参ります。土の大神官様も、ご支度ください」
願いには応えられないと、硬い口調で突き放す。人形のような顔が不満に歪んだ。橙色の瞳は、気に入らないとばかりに細められている。
上書きをはじめた認識は、クレイグの不機嫌顔で塗り潰した。有耶無耶にしたなら、これまで通り。
――ミューア大神官様は、可愛い弟だ。
クレイグが追ってくる気配はない。ジルは一度も振り返らず部屋の扉を閉めた。
その日、朝食の場にクレイグは現れなかった。部屋に姿はなく、居住棟の門兵に訊けば厩舎の方へ向かっていたと返ってきた。
◇
クレイグが風の聖堂を出立して、一週間以上が過ぎた。今日は五ノ月十九日、祈祷の日だ。
セレナの神官教育、戦闘訓練は順調に進んでいる。ラシードから手合わせの催促がないため、ジルは今月も聖魔法の実地訓練を逃れていた。
「強化したい部位に、薄い膜を張ります」
「厚いとダメなんですか?」
「技量、魔力量に自信があるなら構いません。通常よりも大幅に身体は強化されます」
風の大神官は、祈祷の間に籠っているため不在だ。ジルは久し振りに一人行動ができると思っていた。
――剣を振るくらいしかできない。
しかし、セレナまたはラシードの傍から離れてはいけない。心配で祈祷に集中できなくなる、とルーファスに言い含められてしまった。
セレナと護衛騎士は居住棟の裏手で、魔力制御の訓練を行っている。今は強化魔法を教えているのだろう。聖での強化魔法は聞いたことがないけれど、概念は回復魔法に近い。
「カップの縁まで水を張り、溢れさせない感覚を保ちます」
「みずを、あふれさせない」
強化魔法は自身の体を覆うのに対し、回復魔法は他者の体、ケガを覆う。適切な魔力消費を維持できれば、それだけ長く戦闘を、多くの人を癒すことができるのだ。
魔法の使えないエディは、二人が見える場所で鍛練に励んでいた。草のうえ、木々の合間を風が吹き抜けていく。イヤリングの魔法石が僅かに揺れた。
――入れ替わりのこと、黙ってくれてるのかな。
クレイグとはまた、ケンカ別れになってしまった。しかし総本山から呼び出されることもなく、ジルは従者を続けていた。
休息日を挟んだ明後日、セレナの故郷へ向けて出発する。ゲームでリッサの町を襲った魔物は討伐済みだ。他の魔物がいるのか、何も起きないのか。ジルには予想もつかなかった。
「その状態を維持してください」
「……はい」
視線を移せば、セレナの両手は光に包まれていた。レースの手袋を着けたように、薄い膜が揺蕩っている。その横にいるラシードは、いつもの無表情で淡々と指南していた。
――そういえば、特別な感情は無いって。
護衛騎士の好感度は、戦闘熟練度に比例して上がる。このまま特訓を続けていいものだろうか。セレナの気持ちが変わらないとも限らない。しかし、変わらなかった時は。
――儀式の間ずっと、つらい思いをすることになる。




