117 応接室と寝室
視点:ジル◇ラシード
「やる」
「ありがとう、ございます」
ジルの前に、蜂蜜入りの小瓶が置かれた。とろりと甘い香りがする。今日の朝食はミルク、それからスパイスと木の実を混ぜ込んだパンだった。バターを塗って食べるのだけれど、蜂蜜をかけてもおいしい。
クレイグは甘いものが苦手だ。だからジルに押し付けたのだろう。隣席で黙々とパンを齧っている。向かいの席では、セレナやルーファスがパンを千切りながら食べていた。ラシードの席には三人前のパンと、チーズのかかった目玉焼きが並んでいた。ジルには到底食べきれない、体格に合わせた献立だ。
食事の終わりがみえてきたころ、クレイグが口を開いた。
「オレも応接室で寝るから」
「しかし、寝台を置く場所は」
「こいつのを使うからいい」
「「ダメです」」
ルーファスとセレナの即答が重なった。ジルはこの展開を前にも見たことがある。しかし、どうしてダメなのだろうか。ここは宿場ではなく、風の聖堂だ。
「僕は、構いません」
「「「え」」」
「応接室は大神官様お二人と、騎士様でお使いください。僕は、居住棟に戻ります」
三人が同時に息を吐いた。おかしなことを言っただろうか。初めに提言したクレイグまで息をついている。
浴室が無くなるのは残念だけれど、ルーファスとラシードから距離をとることができる。ジルとしては有難い状況だ。そんなとき、ぱんっ、と手を打ち合わせる音が聞こえた。視線を移せばセレナの表情が輝いている。
「エディ君は、寝室で私と寝よう」
「それは……セレナ神官様に、ご迷惑がかかります」
「野宿した時は同じ場所で眠ったよ?」
魔物調査の道程、確かに一日野宿をした。その時は、護衛騎士と風の大神官が交代で夜番にあたってくれた。つまり、二人きりではない。環境が異なりますと伝えようとしたとき、水蜜のような瞳が下を向いた。
「皆は一緒の部屋なのに……私だけ、一人だから」
「……風の大神官様、魔物調査は明日から、ですよね?」
「はい」
「一晩だけ、女性の神官様を派遣していただくことは、できるでしょうか」
ひとりが寂しいのは、ジルもよく知っていた。しかしセレナの立場を慮れば、簡単には了承できない。
だからジルは女性神官の相宿を条件にあげた。これなら二人きりではないから、周囲の目も緩和されるだろう。顎に指をあて考えていたルーファスの眉尻が下がった。
「分かりました。手配いたします」
諦めたように緑色の目が細められる。それは、弟や義父からよく向けられていた眼差しに似ていた。まだ二ヶ月も経っていないのに、ジルは懐かしさを覚える。
「ありがとうございます」
「嬉しい! ルーファス様、ありがとうございます。楽しみだね、エディ君」
ジルのあとにセレナの声が続いた。向かいの席で花のような笑顔が咲いている。とても喜んでいるセレナにつられて、ジルの口元も緩んだ。ふわふわとした空気に和んでいると、隣から不機嫌な気配が漂ってきた。
この話はクレイグから始まったのだ。そのことを思い出したジルは、その場で頭を下げる。
「土の大神官様に確認せず、話を進めてしまいました。申し訳ございません」
「別にいい」
クレイグは鼻を鳴らして、そっぽを向いてしまった。エディに頼まれて風の聖堂まで来てくれたのだ。話の輪から外されれば面白くないだろう。
――ミューア大神官様が帰るときに、お礼をしたほうがいいかな。
◇
弓や勉学に励むセレナの護衛を終えたラシードは、大神官二人の会話を聞き流していた。応接室の魔石ランプは消えており、音だけが明瞭だ。
「エディ、ずっとあんななの」
「はい」
「警戒心なさすぎ」
「……すみません」
「あんたに謝罪される筋合いは…………なにした?」
低調だったクレイグの声音が、一段と低くなった。無音が続くばかりで、ルーファスの応えはない。代わりに、気に入らないとばかりに鼻を鳴らす音がした。
「オレも好きなようにするから」
「ではクレイグ大神官も」
ルーファスは、答え合わせをするような声音だった。無音が続くばかりで、クレイグの応えはない。その後も沈黙は続き、会話が発生することはなかった。
雑音が無くなった。これで体を休められるとラシードは嘆息した。確かにあの少年は警戒心が足りない。何を考え込んでいるのか、信じられないほど無防備になるときが。
――俺には関係ない。
眠ろうと思いながら、なぜか少年のことを考えていた。苛立ちの萌芽を噛み潰す。今度こそ体を休めるため、ラシードは思考を遮断した。




