112 古人と咎人
よく使われる挨拶だ。商習慣に沿っただけで、きっとそこには何の意図もない。ジルは逸りそうになる拍動を、呼吸で抑えつける。
「機会があれば……お邪魔いたします」
「ええ、ぜひ。弟さんといらっしゃるのを、楽しみにしています」
抑えつけ過ぎて、心臓が止まった気がした。頭が真っ白になり、体は塗り固められたように動かない。ジルの前には、変わらず穏かに微笑んだルーファスが立っている。
――どうして?! いつから?!
飛び出そうとした言葉は喉でつかえた。音にならなくて良かった。質問なんて、肯定するのと同じだ。無表情が張りついた唇のすき間から、空気を吸い込む。吐く息を長くして、呼吸を整える。
「僕に弟は、いません。ですけれど……お心遣い、ありがとうございます」
いつも抑揚を抑えて発していた声が、今は勝手に平坦になった。成り代わりを知られてはいけない。聖女の儀式に、随行できなくなってしまう。ジルの否定に、飴色の眉尻が下がった。
「保護を最優先とした、古人の想いがよく解りました」
どうしようもないと、困ったように笑んだルーファスが一歩、ジルに近づいてきた。何のことを言っているのか分からない。けれど、それよりも。濡れた葉のように、色濃くなった瞳に気圧されてジルは足を退いた。
「このままずっと、留まっていただけたなら。どんなにか幸せでしょう」
叶わない夢だと、寂しさを滲ませたルーファスの声が、近づいてくる。なぜ自分にそんな話をするのか分からない。下がり続けていたジルの足が、寝台の縁にあたった。
あとが無く、腕をとられた。
魔物の牙によって裂かれた肌、今はない傷の上を、ルーファスの手がすべる。俯いた顔は、なにかを堪えているように見える。
「お話ししてくださるまで、僕からは伺いません。ですけれど」
次は両手をとられた。包み込むように合わされたルーファスの手のひらには、熱が籠っている。真剣な眼差しには、あの日、東屋でみた瞳と同じ。
「お独りではないことを、覚えていてください」
匂い立つような、万緑が広がっていた。ルーファスが口にしたのは、四年前にジルが伝えた言葉だ。
反射的に、ジルは風の大神官から身を引いた。
けれどもう、足の行き場がない。ルーファスの手から逃れた支えのない上半身だけが、後ろに落ちた。倒れまいと咄嗟についた手が、寝台に沈む。空気をたっぷり食んだ上掛けは、ジルの体をゆっくりと呑み込んでいく。
ひつじの寝床に宿泊。ラームティオに襲われた町。初めての魔物討伐。夢とは異なる事象が、ジルの認識を揺さぶる。
――ゲームが、始まる前のことだったのに。
教会領に居るとき、私心から改変した事柄はあった。けれど新しい聖女は降誕した。だからヒロインに逢えば、すべてがゲームの通りに進むと、ジルは思っていた。
それは当然、風の大神官も同じで。
「聖女様を、支えるのが……大神官様の、お役目では」
「大神官の務めは仰る通りです」
喉に空気が絡みついて、声がかすれた。自分の質問で、自分を追い詰めている。それでもジルは、問わずにいられなかった。
床板を映したジルの視界に、ふわふわとした飴色の髪が入ってきた。伸びてきた手に、室内履きを脱がされる。それはまるで、宝飾を戴くような動作だった。
「ルーファス・リンデンは、我が君のために」
ジルの爪先に、やわらかなものが触れた。
唇が落ちたところから、熱が這い上がる。昇った熱は体を駆け巡り、ジルの肌を染めていった。湧きだす感情は言葉にならず、ただ小さく震えるばかりで。
足元から顔を上げたルーファスと、瞳が交わった。パチパチと飴色のまつ毛が揺れている。ジルは動くことができず、せめて視線だけでも外そうとしたとき。
「信じてくださったのですね」
視界一面に、若葉が萌えた。穏かに笑んだその姿は、ジルが知っているルーファスだ。夢でみたけれど、夢とはちがう。真面目でやさしい、風の大神官。それなら尚更のこと。
――入れ替わってることを、認めちゃいけない。
ジルは唇を引き結ぶ。ふかふかとした寝台の上で、背筋を伸ばした。まだ少し頬が熱い。冷めきるまで隠れたかったけれど、逃げてはいけない。ジルは跪いたルーファスを、真っ直ぐに見詰める。
「僕は、エディです。風の大神官様のお言葉は……姉に、必ず伝えます」
目の前にある眉が垂れた。それでもルーファスは微笑んで、了承してくれた。自分はエディで、ここにジルは居ない。寄せてくれた想いに、今は肯定も否定も返せない。
「ひとつ、お願いしても宜しいでしょうか」
「はい」
「二人だけの時で構いません。職名も敬称もいりません。ただルーファスと、呼んでくださいませんか?」
年上、さらに上職者を呼び捨てになどしたことがない。抵抗はあった。だけど何も返せないジルは、その願いを受け入れた。
――呼び名だけなら、風の大神官様は咎人にならない。
これはジルが勝手におこなっている事で、ルーファスは預かり知らぬこと。体裁を保たなくてはいけない。
聖女の従者となった時から、ジルはソルトゥリス教会を欺いているのだから。




