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傾界の聖女  作者: たま露
【風の領地 編】
112/318

111 客室と憧憬

 「しあわせ」


 あまいクリームに乗ったら、こんな感じなのだろうか。もこもことした丘に、ゆっくりと包まれていく。胸いっぱいに息を吸い込めば、お日様の匂いがした。


 ――夢が、叶っちゃった。


 ひつじを思わせる寝台に埋もれたジルの頬は、緩みっぱなしだった。空気をたっぷり食んだ上掛け。ぴんと張られたシーツは、なめらかな肌触り。ジルが寝返りをうてば、やわらかな心地も一緒についてきた。


 木目があたたかい、手入れの行き届いた室内。天井は斜めに下がっているけれど、それがかえって楽しい。隠れ家のような客室で迎えてくれたのは、ジルの憧れ。ふかふかの寝台だった。


 ◇


 ラームティオを討伐したあと、ジル達は事後処理に追われた。


 当初の予定では、被害状況を記録するだけだった。そこに魔物、戦況の報告も重なり、机上と戦場を往復した。報告書は風の大神官と護衛騎士がまとめていたけれど、ジルも戦闘に加わっていたため見解を述べた。


 義父から貰った長剣は、魔物が砂となって消えた場所に落ちていた。折れていなくて安心したけれど、この町にラームティオが現れた理由は分からないまま、不安だけが残った。


 報告書の作成中、ジルがいなくてもよい時は衛兵やセレナと一緒に町をまわった。記録をとり終えた石壁の掃除、放牧地の地ならし、柵の修繕。すれ違う人々に、二人は感謝の言葉をかけられた。それは嬉しくもあり、心苦しくもあった。


 町教会で寝泊まりを繰り返して、帰路についたのは十三日後だった。


 風の聖堂に着いたとき、ジルの腕には包帯が巻かれていた。戦闘が終わったあと、セレナはすぐに治療を施そうとしてくれた。傷は浅いから問題ないとジルが断ったとき、ルーファスも口添えしてくれたのだ。


 ここでは町の人の目があるから、聖魔法は使わない方がいい、と。


 滞在期間が長引いたので、その判断は正しかった。聖神官だと知れれば、町教会には治療を望むものが絶えなかっただろう。セレナの負担を思えばルーファスの判断に異論はない。むしろ他者回復を弾いてしまうジルは、大いに助かった。


 けれど風の大神官は気が咎めたようで、町教会にいる間、ジルの部屋を毎日訪ねてきた。


 ◇


 客室の灯りを落とすため、ジルは魅惑的な寝台からやっとの思いで起き上がった。その直後、扉が控えめにたたかれた。


「ルーファスです。ご挨拶に伺いました」


 腕の傷はとっくに塞がっている。こっそり自己回復も使ったから、傷跡もない。風の聖堂にいる時はともに応接室で眠っているから、当然訪問はなかった。だから終わったことだとジルは思っていた。


 ――気にし過ぎだよね、これ。


 弦ノ月の祈祷が終わり、休息日を挟んだ翌日、聖女一行は息休めとしてメルセンの町に来ていた。


 風の聖堂から馬で一日。この町には、ルーファスの両親が営む宿屋、ひつじの寝床がある。明日から三日間、町をあげての祭りがあるとのことで、二泊の予定が組まれていた。


 ゲームにはなかった出来事だ。夢のなかでは、この宿屋は燃えて無くなっていたのだから。


「どうぞ、お入りください」

「いえ、すぐに」

「ちょうど、風の大神官様とお話をしたいと、思っていたんです」


 予想外だったのだろう。若葉色の目がパチパチと瞬いた。眠ろうと思っていたジルは寝衣に着替えていたけれど、今更気にすることもない。扉を開けたジルは再度促し、ルーファスを招き入れた。


「このお部屋しか残っていなくて……すみません」

「えっ。違います! お部屋は、とても気に入っています!」


 入室するなり、ルーファスは飴色の眉を垂らした。ジルが宿泊しているのは、屋根裏を改装した客室だった。


 祭りを控えた宿屋はいつにも増して盛況で、セレナとラシードの一人部屋、そして普段は使用されないこの部屋しか押さえられなかったそうだ。ちなみに実家であるルーファスは、自室を利用している。


 聖魔法のことは気にしなくていいと伝えるつもりが、気苦労を重ねてしまった。だからジルは、この寝台はいかに素晴らしいか、部屋の造りは楽しく、調度品はどれほど落ち着くかなど、できるだけ表情を抑えて力説した。


 そうしてやっと、緑色の瞳に瑞々しさが戻った。ふわふわとした飴色の髪を揺らし、ルーファスはほっと胸を撫で下ろしている。


「喜んでいただけて、とても嬉しいです。ご招待できる機会は、無いと思っていました」


 ――ん?


 風の大神官とエディは、百合の間で初めて顔を合わせたはずだ。それよりも以前に面識があったのなら、弟から報告がなければおかしい。最近、宿屋の話をした覚えもない。言葉の受け取り方を間違えたのかもしれない。


「お招きしたかったのは、セレナ神官様……ですよね?」

「いいえ、貴女です。今後もリング―シー領にお越しの際は、ご贔屓ください」


 穏かに微笑んだ若葉の瞳には、宿屋に対する誇らしさと、憧憬が滲んでいた。

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