110 目算と職務
視点:ラシード
「ありがとう、ございます」
状況を飲み込んでいる最中なのだろう。少年は目を瞬かせ、ゆっくりと口を開いた。
自分を飛ばせと言うから、ラシードは大剣で足場を作ってやった。算段あっての要請だろう。そう思っていた。事実、立てた目算は大いに狂い、戦闘は物足りないほどの短時間で片付いた。
「あとのことも考えろ」
ラシードがため息交じりに叱責すれば、少年は紫色の瞳を丸くして凝視してきた。
――驚いたのはこちらだ。
魔物の咥内に長剣を刺したあと、少年は躊躇いなく手を離した。だから着地についても考えがあるのだろう。そう思っていた。
だが違った。少年にその素振りはなく、ただただその身は地面に近づいていた。
ラシードは強化魔法を足に集中させた。風魔法ほどの速度は出せないが、落下地点には入り込めた。両腕と体を使い少年を受け止めた。多少の負荷はあったが、筋を痛めるほどの衝撃はなかった。
「どうする心算だった」
「あの高さなら、なんとかなるかな……と」
魔法が使える者なら、着地衝撃の緩和方法はいくらでもある。しかしこの少年は魔法が使えないはずだ。近くに回復魔法を持つ聖女がいるとはいえ、打ち所が悪ければ死に至る。
どこに胆力を溜め込んでいるのか。抱えた少年の体は相変わらず軽く、やわらかい。硬い地面に打ち付けられたなら、簡単に壊れてしまうだろう。
だが少年は、そんな事など一切気にしていない顔で平然と答えた。その姿に呆れて軽く睨めば、少年は居心地が悪そうに目を泳がせ重心を変えた。それの意図するところを察し、ラシードは腰を落とす。そのまま背を支えてやれば、少年はしっかりとした足取りで地に立った。
――範囲は狭いが。
紅く染まった袖が目に入った。受け止めた時から、ラシードは少年のケガに気が付いていた。本人の様子から軽傷と判断していたのだが、見立てを改める。治療は聖女に任せるとしても、止血はしたほうがいいだろう。
腕を出せ。ラシードがそう言おうとしたとき、横顔をみせていた少年が体の向きを変えた。
「ご心配には、及びません。あなたよりも先に、倒れるつもりはありませんから」
言葉の意味を考えるよりも先に、眉根が寄った。決意に満ちた紫眼は一点を、自分を真っ直ぐに見上げている。
魔物に抉られた土と血のにおいが、ぬるい風に運ばれてくる。
――吐き気がする。
宿場で相部屋になった翌日から、ラシードは少年の察知能力を確認していた。生存本能ゆえか、殺気にはすぐ反応を示した。挑発や悪気といった害意も、少年は読み取れている。
だがそこまでだ。ラシードが気配を消せば、少年はまったく気が付かなかった。それだけではない。気配を抑えずとも、そこに害意が含まれていなければ頓着していない様子だった。恐らく、自分の気を制御するので手一杯なのだろう。
――たちが悪い。
少年は詰めが甘いくせに行動は早い。神官に対しても、魔物に対しても。向こう見ずに進んでいった。用具室でもそうだ。脇を抜けられたとき、ラシードは少年を捉まえることができなかった。
扉を開けた女神官から、少年の顔は見えなかったはずだ。だというのに、自ら正体を明かしにいき、くだらない種をまいた。
あの時も吐き気がした。少年がまとわせた甘い花の香りに当てられ、遺棄したはずの感情がうごめいた。今、その香りはしない。それでもラシードに纏わりついてくる。
自分よりも強くなりたいのだと鍛えてみせ、力の差があるからと逃げまわる。恐れているくせに近づいてきて、先に倒れるつもりはないと駆けていく。
まるで一貫性がない。そんな言動に、なぜ自分は付き合っているのか。滲み出る情動を塞ぐため、ラシードは奥歯を噛んだ。
「大丈夫ですか?! 先ほどの戦闘で」
少年が細腕を伸ばしてきた。普段は変化の少ない顔に、不安の色を浮かべている。ケガの痛みをこらえているとでも思ったのだろう。己の傷は棚に上げて。
「自分の心配をしろ」
気が付けばラシードは少年を睨みつけていた。拒まれた驚きか、殺気にか。少年は負傷した腕を押さえ、顔を強張らせていた。
職務のことだけを考えていればいい。何かあればデリックが恨み言を並べるだろうが、少年は護衛対象ではない。ウォーガンに睨まれるのは少々堪えるかもしれないが。しかし、自分が見ていなくとも。
「だから後ろにいてくださいと……! 他にケガはしていませんか!?」
「ここだけです」
青い顔で駆け寄り膝をついたルーファスと、大人しく介抱されている少年。ラシードは視界から、二人を外した。




