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傾界の聖女  作者: たま露
【風の領地 編】
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105 拒否と最適解

「起こしてしまい、申し訳ございませんでした」


 ジルの部屋はラシードの隣だ。扉の開閉や水音で目が覚めたに違いない。安眠を妨害されたのだ。ラシードが苛立つのも納得できた。


 ジルが意地を張ったせいで風の大神官だけでなく、護衛騎士の睡眠時間まで削ってしまっていた。申し訳なさにジルは眉尻を下げた。


「風の大神官様と、お話をしていて……今後は気を付けます」


 ジルの反省度合を探っているのだろう。瞳に朱い熱を宿したまま、ラシードは身動ぎひとつしない。怒りを鎮めるのは容易ではないようだ。でなければこんな事をいう訳がない。


「二人部屋に替える」

「えっ」

「隙が多い。鍛えてやる」


 低く乱れのない声音は真剣で、冗談を言っているようには聴こえない。むしろ冗談であって欲しかった。日中飛んでくる殺気だけで十分訓練になっているのに、就寝時にまで向けられては気が休まらない。そして何よりも、ジルは体を洗えなくなるのが嫌だった。


 ――ここは断固拒否だ!


 剣を交えることになっても構わない。勝負で溜飲を下げてくれるのなら喜んで受けよう。ジルは表情を抑えるのも忘れて眦を吊り上げる。すると、そんな気合などそよ風だと言わんばかりに護衛騎士の目が細められた。


「俺より強くなりたいんだろう?」


 あなたに頼らなくても鍛えられます。そう啖呵を切るためジルが口を開いたと同時に、扉の開く音がした。


「きゃっ! 失礼いたしました!!」


 上がった声と同じくらいの音を立てて扉が閉まった。


 ラシードの体が邪魔で姿はよく見えなかったけれど、女性が驚いていたのは分かった。用具室に来たということは、ここにある物を今から使用するのだ。仕事の邪魔をしてはいけない。


 ジルは体勢を落として床を蹴った。護衛騎士の脇をすり抜け扉の外に出る。左右を見渡せば、少し離れたところでそわそわしている女性神官が目に入った。


「用具室にいらっしゃった方……でしょうか?」

「え、えぇ」

「驚かせてしまい、申し訳ございません。……何か、運ぶのですよね。お手伝いします」


 女性神官の顔が赤い。返事もどこかぼうっとしていた事から、風邪を引いているのではないかとジルは考えた。お詫びも兼ねて助力を申し出れば、両手を振って断られてしまった。その上、お邪魔してごめんなさいと謝られてしまう。


「本当に大丈夫です。椅子を、一脚運ぶだけなんです」

「……分かりました。どうか、ご無理のないよう」


 お手伝いがお節介になってはいけない。ジルは女性神官を用具室まで送ったあと、その場を離れた。室内に護衛騎士の姿は無かった。


 ◇


 ジルは今、飾られた花に萎れたものが交ざっていないか聖堂内を見回っていた。


 ――本当に部屋を替えるのかな。


 掃除中、気になって仕方なかった事柄は、夕刻に響いた慌ただしい足音によって上書きされた。


「ケガは!? おケガはありませんか!?」

「わっ」


 背中に受けた衝撃で、橙色の小さな花弁がはらはらと舞う。


 祭壇に活けられた花々のなかに、くたりと頭を垂らしたものが一本あった。太陽を小さくしたような花を抜きとった直後、ジルは後ろから抱きすくめられた。


 顔を見なくてもルーファスだとすぐに判った。けれど声は狼狽しており、いつもの穏やかさは消え失せている。恐らく午前中に起きた同僚の件を耳にしたのだ。


「聖堂内なら大丈夫だと……浅はかでした」


 ジルが返事をする前に腕は解かれた。隣に移動したルーファスは床に両膝をつき、ジルの容態を確認している。目は忙しなく動き顔面は蒼白だ。その姿に、ジルの顔も青くなった。


 膝をついた風の大神官に合わせて、眩い胡粉色の法衣が地に敷かれている。


「お立ちください。大切な正装が、傷みます」

「あなたより大切なものなどありません」


 ――あります。間違いなくあります。


 現に、風の大神官を追って来た神官や使用人達は動揺している。


 大神官の正装には多額の費用が掛かっているはずだ。汚れや傷がつく前に着替えてほしいに違いない。管理者の心労はいかばかりか。


 ここは否定するより、ルーファスに話を合わせるのが最適解だとジルは判断した。


「そう思ってくださるのなら……僕の言葉を、聴いてください」


 目と目が重なった。緑の瞳は、縫い止められたように動かない。下位の者から命令されたにも等しいのだ。咀嚼に時間が掛かるのは仕方ない。ジルは静かに応えを待つ。


 手からひとつ、ふたつと橙色の花片が零れたとき、視界一面に若葉が萌えた。


 注がれる眼差しは、溢れんばかりの新緑に輝いている。淡紅に色づいた頬は、あたたかな風に撫ぜられたがごとく緩んでいた。顔だけではない、ルーファスの全身から嬉しいという気配が溢れていた。


 従者に進言されて抱く感情ではない気がする。けれどこれなら願いを聴き入れてくれそうだ。ジルの目論見通り、風の大神官は床から立ち上がった。


「分かりました。着替えましょう」


 ――それでなぜ、手を繋ぐのかな。

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