104 毒見と指導
室内には椅子や長机の予備、仕切板などが置かれていた。窓にはカーテンが掛かっているため今は薄暗いけれど、開ければ支障はないだろう。頻繁に利用されているのか、備品にホコリは被っていない。
通りすがりの人に食事を見られないよう、ジルは用具室の扉を閉め、ラシードにパンを差し出した。
「どうぞ」
受け取って貰えたことを確認して、ジルは部屋の奥に足を進める。左右に規則正しく積まれた椅子や長机の間を抜けて、カーテンに手をかけた。
「エディ」
「は、っ!」
重低音な呼び声に振り返ったジルは、口に一欠けらのパンを詰められた。
少し硬めの生地だけれど、噛むほどに味わいがでて美味しい。ではなく、なぜ自分が食べているのだろうか。ラシードは、ジルが飲み込んだのを確認してからパンに齧りついた。
「もしかして……毒見させました?」
思わずジト目になる。やはりラシードは食べ足りなかったのだろう。手のひらよりも少し大きいくらいのパンは、三口で胃の中に消えた。手近な長机に腰掛けていた護衛騎士は、包み紙を丸めてポケットに入れている。
「初対面で殺気を向けてきたヤツが寄こす物を、疑いもせず食べる阿呆がどこにいる」
「うっ……別に、あなたを殺したいわけでは」
カーテンは開け損ねたため、部屋はまだ薄暗い。それなのに一瞬、朱殷色の瞳が明るくなった気がした。ラシードの無表情は変わっていない。いつも頭上高くから落ちてくる視線が、今はジルの正面にある。
誤解が生じているのなら、絡みきる前に解いたほうがいいだろう。聖女の儀式は、始まったばかりなのだから。
「僕は、バクリー騎士様より強くなりたいだけ、です」
ジルは瞳を逸らさず、偽りのない思いを発した。
近衛に推されていた護衛騎士からすると、元従卒の言葉など大言壮語も甚だしいだろう。面食らったように鈍色の眉を軽く上げている。けれどすぐ定位置に戻り、次は口角が上がった。
「その割に、俺との手合わせは避けているようだが」
「……狭いです」
「逃げようとしただろう」
長机から立ち上がったラシードによって、ジルは窓際に追いやられていた。背中にはカーテン越しに窓枠が当たっている。視界の正面には黒地の騎士服、上を向けば褐色肌に熾火の瞳がともっていた。
――回復魔法が効かないからです! なんて言えないし。
「力の差が、まだ大きいので」
ジルは上げていた視線を落とす。小回りならジルのほうが勝っているかもしれない。けれど腕力といった純粋な力は、まったく敵う気がしなかった。
だから今の言葉にも偽りはない。答えたのだから離れてくれないかな、と考え始めたとき、平坦な声音で新たな問いが降ってきた。
「ハワード団長の鍛錬方針は」
「素早さと正確さを上げろ、です」
「ならそれを伸ばせ。短所は勝手に補われる」
まさか護衛騎士から指導を受けるとは思わなかった。ジルは驚きを隠せず、パチパチと瞬きを繰り返す。そんな空気を感じとったのだろう。ラシードは心外だと言わんばかりに顔を顰めた。
――今日はよく動くな。
引き締まった長躯だけでも威圧感があるのに、攻略対象であるラシードはご多分に漏れず整った顔立ちをしている。至近距離で睨まれている今は大変迫力があり、居心地が悪い。けれど感情の窺える姿は、いつもよりずっと好感が持てた。
「ご指導、ありがとうございます。バクリー騎士様」
このままお辞儀をすると、ラシードのお腹に頭突きをしてしまう。ジルは朱色の瞳を見上げて、一礼代わりに首を傾けた。
これで話は終わったのだろう。護衛騎士は背を向けている。パンの差し入れという目的は済んだ。ジルは用具室から出ようと歩を進め、られなかった。
何故かまた窓際に追いやられている。さらに今度は片腕による逃亡防止つきだ。今から恐喝でもされるのだろうか。パンはもう無い。
「食べる物は」
「匂いがどうのと言っていたな」
「え、……やっぱり僕、汗臭いですか?」
慌てて服を引っ張り、鼻で吸い込む。自分で自分のニオイは判断しづらい。よく分からなかった。諦めてラシードに目を戻せば、可哀想な子を見るような、義父からよく向けられていたものと同じ視線を注がれていた。
「甘い、花のような匂いだ。今朝、風の大神官様からも同じ香りがした」
ジルはほっとした。昼食の場に嫌なニオイは持ち込んでいなかったようだ。同じ香りということは、ルーファスも洗面台に置いていた石鹸を使用したのだろう。
しかしなぜラシードは、苛立ったような気配をまとっているのだろうか。ジルが思い当たる理由は、ひとつしかない。
「苦手な香りでしたか?」
「昨夜は部屋に戻るのが遅かったな」
返答になっていない。ジルの質問は聞こえなかったのだろうか。頭上にあるラシードの瞳は、爛然としていた。




