エピローグ
この長い帝国の歴史を紐解けば、数多くの転換期があったことが分かるだろう。
中でもレセップス運河の建設は、その後の帝国の繁栄に大いに貢献したと評価できる。
計画段階では魔獣蠢く大地との近さを理由に様子見する商会もあったようだが、やがて最北の城壁とスラスター騎士団の警備によりその安全性が証明されると、帝国内外を問わず、数多の商会がこぞってレセップス運河を通航することとなった。
この運河は、世界中の物流の常識を変えた。
世界中の船の規格はレセップス運河の川幅に合わせて設計され、物流ルートや運搬貨物の内容も、レセップス運河を通航する前提で決められるようになったのだ。
船員たちの休憩や交代を行う拠点として、川沿いを中心に徐々に街が形成されることとなった。
世界中の人々が集まる場所には、物も文化も集まっていく。
元は貧しい漁村にすぎなかったギシャール村は、後に帝国第二の都市と呼ばれるまでに発展していったのである。
ギシャールの街が発展していくに伴い、アンカー辺境伯領は徐々に豊かになっていった。
運河の完成から遅れること7年。
皇都からシャンクの街に続く鉄道が完成した。
内地とアンカー辺境伯領を隔てる山脈は地盤が固く、工事は想定以上に困難を極めた。
しかし他の投資家たちを束ね鉄道事業の代表となったミゲル・バースは、必ずやアンカー辺境伯領まで鉄道を通すのだという、確固たる決意があった。
その熱意に応えるように、作業員たちが努力を続けた結果、やがて山脈にトンネルが開通することになる。
初めてトンネルの先に光を見た作業員たちは、声をあげて喜んだと伝えられている。
その2年後には、レセップス運河まで鉄道を延伸し、より効率的に貨物を運べる体制が整ったことで、飛躍的に帝国内の物流効率が改善された。
この鉄道にはミゲル・バースの名からバース鉄道と名付けられ、現在もその名で知られている。
当のミゲル・バースという人物は、子爵でありながら生涯独り身であったことでも有名だ。
レセップス運河が完成した翌年、前子爵である父が亡くなると、彼はその子爵位を継ぐと同時に、自身は結婚をせず、後継者を傍系から選ぶことを発表した。
その理由について当時の新聞が伝えたところによると、「自身にはその資格がない」と彼は語ったのだという。
彼はその命が尽きるまで鉄道に熱意を注ぎ、後に「鉄道の父」と呼ばれるようになった。
栄光があれば、また影が生まれるのも国の宿命だ。
歴史上最も悪名高い組織的な不正の当事者であった、ダリル・ボラードによる横領事件。
一連の事件の責任を取り、ボラード家の財産の大半が国庫に納められた。
しかし大々的な横領事件を起こした割に、その額は大したものではなかったという。
後に、横領したはずの金品は全て、領地経営に使われていたことが発覚する。
ダリル・ボラードが爵位を継いで以降、ボラード伯爵領は盗賊団から度々襲撃を受けており、農家は多大な被害を被った。
その結果、ボラード伯爵領の誇りである豊かな農耕地帯の存続が危ぶまれるほどであったのだ。
横領した金品は全て、その補填と盗賊団討伐の為に使われていたことが分かった。
そうした事情であれば、横領などせず、周囲の領地や国に助けを求めれば良かったものを、何故そうしなかったのか。
その理由については、文献をいくら紐解いても明確に記載されていない。
しかし当時発売されていたゴシップ誌によると、ダリル・ボラードは非常にプライドが高く、また理想も高かった為に、他者に助けを求めることが出来なかったのではないかと記されている。
だが当然これは、想像の域を出るものではない。
この事件を重く見た当時の法務大臣であるアルバート・ドルフィン侯爵は、若き皇帝の元、様々な改革を行なった。
大臣の任期制や局間の相互監査などの仕組みを導入し、組織的な不正を生みにくい体制へと変革した。
また現在の領地経営聞取制度として知られる領主へのヒアリング制度は、領地の問題を領主だけで抱えることのないようにと、この事件をきっかけに始まったものである。
一方、事件の発端となったダリル・ボラードが処刑されると、息子であるフィリップ・ボラードは、父から継承する予定だったボラード伯爵位を皇帝へと返上した。
ダリル・ボラードの不正摘発の一翼を担った功績で、爵位はそのままとされる予定であったにもかかわらず、自らそれを放棄したのだ。
これは、父であるダリル・ボラードが引き起こしたもう一つの凶悪事件、「シャンクの放獣事件」に、フィリップの妻であるサラ・ボラードも関与していたことの責任を取ったものだと伝えられている。
彼はサラが修道院に送られた後も離婚をせず、生涯再婚することはなかった。
後は、一介の平民行政官として一生を終えた。
サラ・ボラードについては、あまり多くの文献が残されていない。
しかし収容された修道院の日誌を読み解くと、修道院へと送られた十年後、病でこの世を去っていることが分かる。
当時の院長は、「ひたすら罪を償うように、勤勉かつ清貧に日々を過ごしている」とサラのこと記述している。
また、時折フィリップが面会していた記録が修道院に残されている。
そこでどんな会話がなされたのかまでは記録されていないが、サラがこの世を去る直前まで、その面会は続いていたようだ。
ここで、先に触れたレセップス運河を建設したアンカー辺境伯家について詳細を記そう。
当主である第4代アンカー辺境伯であるケヴィン・アンカーは、レセップス運河が完成した翌年、第7代皇帝より長年の魔獣討伐の功績を讃えられ、最高軍事指導官という名誉職を与えられた。
ケヴィンの功績が国民全体に伝えられたことで、それまでの悪評から一点、皆から賞賛され慕われる存在となっていった。
今ではその高潔さと美しさで讃えられるケヴィンが、一時期なぜ『怪物伯爵』などと評されていたのか、その詳細は不明である。
レセップス運河の本当の立役者は、ケヴィン・アンカーではない。
ケヴィンの元に嫁いだナタリー・ファンネル、もとい、ナタリー・アンカーその人だ。
彼女はレセップス運河建設の功績により、第7代皇帝から男爵位が与えられ、この帝国の歴史上、初めて叙爵を受けた平民出身の女性となった。
ナタリー自身はその後も変わらず、ファンネル商会と運河の経営に携わり、多忙な日々を過ごすことになる。
しかし、結婚から2年後。
妊娠を機に、ファンネル商会及びレセップス運河運営会社の会長として就任。
実務は他の役員へと譲り渡すこととなった。
何よりナタリーの体調を慮った夫のケヴィン・アンカーの、必死の説得に応じたものであったという。
ナタリーは翌年、双子の男女を出産。
剣の才能がある活発な女児と、知略を巡らすことに長けた物静かな男児であった。
ナタリーとケヴィンは二人を寵愛し、やがてアンカー辺境伯家は理想的な家庭の象徴と謳われるようになった。
子育てが落ち着いた後、ナタリーは再び運河経営に携わり、屋敷の家政を行いながら勢力的に活動を行った。
彼女を直接知る者は皆、「ナタリー・アンカーほど、人生を謳歌した女性はいない」と口を揃えて言ったのだという。
現代に至るまで、アンカー辺境伯領の繁栄は変わらない。
今後も彼らの功績は、永遠に語り継がれるであろう。
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これにて完結です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
思えば長い連載期間になりました。
何度も間が空いてしまい、申し訳ありませんでした。
この作品は書籍化が決まっているものになります。
よりブラッシュアップして皆様の元に届けられるよう、頑張りたいと思います。
とにかくもう、本当ありがとうございました!!!




